2016年次総会「エホバに依り頼み、善を行なえ」 - デービッド・スプレーン

テキスト

エホバはわたしたちを、特筆すべき能力を持つ者として造られました。

問題を解決し、将来の計画を立て、計画を実行する能力です。

では、エホバはその能力をどのように用いるよう望んでおられますか?

他の人のためです。

なぜですか?

エホバは他の人のためになることを行なう時、幸福になることをご存じだからです。

神はわたしたちに幸福になって欲しいと願っておられます。

同時に、エホバはわたしたちに限界があることもご存じです。

でも、時にわたしたちはそのことに気づきません。

ですから、わたしたちは道理にかなった目標を立てる必要があり、それが達成された時、喜びや幸福を感じるのです。

中にはそのことをもっと悟らなければならない人もいます。

そうした人は決して満足せず、お金にも、奉仕の立場にも満足せず、もっと、もっと、もっと欲しがります。

結果はどうなりますか?

幸福にはなれません。

わたしたちは自分にできることに満足を感じるべきであり、できないことを思い悩むべきではありません。

エホバの目的に自分の目標を合わせるなら、エホバが支えてくださると確信できます。

実際、詩編 37編の筆者はそのことを確信していました。

それは、エホバとの個人的な関係を持っていた人で、エホバに依り頼むなら支えてくださることを確信していました。

詩編 37編3節を読みましょう。

筆者は個人的に経験したことから語りかけています。

「エホバに依り頼み、善を行なえ」

この話のテーマですね。

「地に住み、忠実さをもって行動せよ」

詩編 37編はベツレヘム出身のダビデによって、その晩年に書かれたようです。

というのは、ダビデは、

「わたしはかつては若者であったが、わたしもまた年老いた」

と書いているからです。

ダビデは70歳で亡くなりましたが、そうなると「年寄り」の定義に異議を唱える人もいるでしょう。

ハード兄弟の「だれが年寄りですって?」との声が聞こえてきそうですね。

まだコオロギのなく声や、小鳥のさえずりを聴き分けられます。

ダビデは自分自身の経験から語っており、円熟した人としてわたしたちにも経験を分け与えています。

自分の経験から益を得て欲しいと願っていたのです。

なんと波乱にとんだ人生だったのでしょう。

では、続く話の中で、ダビデの人生のハイライトを振り返り、エホバに依り頼むことによってどのように導かれていったかを考えましょう。

エホバ神はダビデをいつも導かれ、そのことはわたしたちにも益となります。

ダビデが生まれた時、サウルがイスラエルを10年以上治めていました。

しかしエホバはサウルを喜ばれません。

実際、その何年も前にエホバは預言者サムエルを通して、

「エホバは必ずご自分のためにその心にかなう人を見いだされます。エホバはその人をご自分の民の指導者として任命されます。あなたはエホバの命じられたことを守らなかったからです」

と言われます。

これはエホバのサウルに対する預言でしたが、すぐにはそうされませんでした。

サウルをすぐに王位から退けませんでした。

実際、ダビデがイスラエルの次の王として油そそがれるまで、25年以上かかりました。

サウルは、エホバが自分を王から退けたことを忘れたとでも考えたのでしょうが、お忘れになることなどありません。

ダビデが油そそがれました。

さて、フィリスティアのガト出身の巨人ゴリアテが、生ける神を侮り、

「ひとりの者を選んで、わたしのところに来させよ」

と言います。

若いダビデは陣営に行き、この言葉を耳にします。

そしてイスラエル人の兵士がだれも戦おうとしないことを見て、不思議に思い、尋ねます。

年長のエリアブはダビデの言っていることを聞き、彼を叱りつけます。

年上の兄弟たちはそうする傾向があるようです。

サムエル第一 17章の会話から、その点を見てみましょう。

サムエル第一 17章28, 29節。

「そして、一番年上の兄エリアブは、ダビデが人々に話しかけたとき、それを聞くようになった。エリアブの怒りがダビデに対して燃えたので彼は言った、『どうしてお前は下って来たのか。それに、荒野にいるあのわずかの羊をだれに預けて来たのか。わたしは、お前のせん越さと心の悪さをよく知っている。お前は戦いを見るために下って来たのだ』。それに対してダビデは言った、『わたしが今、何をしたというのですか。ただ一言いっただけではありませんでしたか』」

現実的な会話です。

皆さんの家庭内でもあり得る会話ではありませんか?

では、エリアブの問題点は何だったのでしょう?

自分の目に映るダビデしか見ていませんでした。

エリアブにとって、ダビデはまだまだ小うるさい子どもにしか思えなかったかもしれませんが、もっと違う目で見るべきでした。

なぜですか?

サムエルが、ダビデが将来の王であると告げた時、エリアブもその場にいたからです。

さて、今イスラエルを治めている王は、ゴリアテの挑戦を受けて立とうとはしません。

それなら王権を継ぐ者がこの挑戦を受けて立ったとしても、どこがいけないのでしょうか?

ダビデの行なおうとしていることは、少しもせん越ではありませんでした。

想像してみてください。

一方は10代くらいの羊飼いダビデ、もう一方は60代後半の鍛え抜かれたサウルです。

では、ダビデにあってサウルになかったものは何ですか?

依り頼むこと、エホバへの信頼です。

ダビデはエホバから与えられた務めを果たそうとしましたが、信頼だけでは不十分であることもわきまえていました。

エホバがゴリアテと戦うためにだれかを起こされるだろうとの信頼を抱いていたとしても、それでは何にもなりません。

ダビデはエホバを信頼し、さらに良いことを成し遂げたいと思っていました。

でも、ダビデがゴリアテを倒すのにリスクはなかったのでしょうか?

全くありません。

なぜですか?

エホバはイスラエルの王となるようダビデに油をそそぎましたが、まだ王にはなっていませんでした。

ゴリアテのような無割礼のフィリスティア人が、エホバの目的を阻めるのでしょうか?

いいえ!決してできません。

そんなことは起こりえません。

ゴリアテも、サウルも、だれも、ダビデが王になるのを阻むことはできません。

エホバに忠実である限り、ダビデは生き続けるのです。

ダビデはエホバを全く信頼し、その信頼は報われました。

彼は再び自分自身の経験を述べています。

詩編 37編に戻りましょう。

37編から度々引用しますので、開いたままにしておかれるとよいでしょう。

5節で再度自分の経験から語っています。

詩編 37編5節。

「あなたの道をエホバの上に転がし、神に頼れ。そうすれば、神ご自身が行動してくださる」

フィリスティア人はイスラエルの敵とされましたが、ダビデは自分の国でも敵を持つことになります。

親しい友や家族の裏切りに遭い、気落ちしても不思議ではありません。

そうした状況においても、ダビデは霊的な人でした。

霊的な人は裏切りにどう対処するでしょうか?

8節に注目しましょう。

「怒りをやめ、激怒を捨てよ。激こうし、そのためにただ悪を行なうことになってはならない」

ダビデは裏切りにあっても、どうしてこうした態度を保てたのでしょうか?

エホバ神との温かい個人的な関係を持ち、神を知っていたからです。

エホバが全てをご存じであることも知っていました。

神の保護も感じていました。

37編18節に注目しましょう。

「エホバはとがのない者たちの日々を知っておられ」

安心ですね。

「彼らの相続物は、定めのない時までも保つ」

ダビデは強く、勇敢な戦士でした。

戦いから戻った時に、女たちが「サウルは千を打ち倒し、ダビデは万を」と歌いました。

しかし、ダビデは自分の武勇に頼ることはせず、エホバに目を向けました。

詩編 37編12, 13節からそのことが分かります。

「邪悪な者は義なる者をたくらみに掛けようとし、これに向かって歯がみしている。エホバが彼を笑われる。彼の日が来るのを確かに見ておられるからだ」

何が起ころうとも、エホバがご覧になり、エホバがしっかり見て、エホバがふさわしい時に介入されるということを、ダビデは確信していました。

とても勇気づけられます。

そして詩編ほど、この力強くて頑丈な戦士ダビデが、彼の敵から逃れられるよう、エホバに嘆願している箇所はありません。

世の多くの人は彼を臆病者と見るかもしれません。

この世では多くの人はこう言います。

「負けるな、逃げるな、立ち上がれ、武器を取れ、ベッド脇に備えていろ」

ダビデはそうしませんでした。

詩編 37編28節で「エホバは公正を愛される方」と述べています。

エホバに物事をゆだねたのです。

ダビデは度々、良心の呵責にさいなまれました。

ダビデがサウルから逃れて、祭司アヒメレクのところに来た時のことを覚えておられますか?

アヒメレクはダビデが逃亡者であるとは知らず、ダビデは事実を隠していました。

加えて、ダビデはアヒメレクに、

「王がある事柄に関してわたしに命じ、さらにこう言われました。『わたしがお前を遣わし、またお前に命じた事柄については、だれにも何も知らせてはならない』」

と言いました。

でも事実ではありませんでした。

ダビデは共にいる人のためにパンを求め、アヒメレクは喜んで渡しました。

サウルがそのことに気づくと激怒します。

彼はアヒメレクとその家族、85人の祭司たちを殺します。

アヒメレクはだまされました。

ダビデをサウル王の使者と思っていたのです。

彼が事実を知っていたら、ダビデを助けたでしょうか?

恐らくしなかったでしょう。

85人の祭司が復活してきた時、ダビデはこのことに関して説明する必要がありそうです。

ダビデは良心が傷んだでしょうか?

そうだったことでしょう。

たった一人生き残ったアヒメレクの息子に、

「わたしとしてはあなたの父の家のすべての魂に悪いことをした」

と語ったからです。

良心の呵責を抱いて、どうやって生きていけるのでしょう?

たくさんの人が亡くなっているのです。

ダビデに何ができますか?

起きてしまったことは仕方ありません。

過去は変えられません。

ダビデは罪の意識に打ち負かされて、自分は価値がないと思い、エホバへの奉仕をやめてしまいますか?

いいえ、自分にできることをしました。

アヒメレクの家のまだ生きているただ一人の人を保護し、守ったのです。

さらに問題は続きます。

ダビデはバテ・シバと姦淫を犯し、夫のウリヤを死なせます。

彼はエホバにもウリヤにも、他の妻にも罪を犯しました。

アビガイルも惨めに思ったでしょう。

最悪の夫から救われたのに、新しい夫からは裏切られたのです。

罪が明らかになった時、ダビデはどうするでしょうか?

できないことはあります。

ウリヤをよみがえらせることはできません。

でも、罪を深く後悔することはできました。

預言者ナタンは、「エホバはあなたの罪を見逃されます」と言います。

ダビデはほかに何ができましたか?

エホバが、確かに罪を許してくださったことに、信仰を持つことができました。

わたしたちはどうですか?

生きている間に償おうにも償えない過ちがあります。

その結果を甘んじて受けなければなりません。

でもできることがあります。

神の言葉をその通りに受け入れ、難しい時にもエホバが支えてくださることに信頼を寄せるのです。

時にはそれが自分で招いたものであっても、エホバが支えてくださると確信するのです。

ダビデはエホバの助けを受け入れ、霊的に回復させられました。

繰り返します。

ダビデはエホバの助けを受け入れ、霊的に回復させられました。

どのようにですか?

1つには預言者ナタンからの助言を謙遜に受け入れることによってです。

ダビデが良い態度で悔い改めたことは、後にバテ・シバとの子どもの一人に、ナタンと名付けたことからも分かります。

助言に憤慨していたなら、そんなことはしなかったでしょう。

ダビデは助言をしっかり受け止めました。

ダビデは自分の間違いから学び、善いことを行ない続けました。

詩編 37編23, 24節を書いた時、自分自身のことを思い返していたことでしょう。

「強健な人の歩みはエホバによって定められ、神はその人の道を喜びとされる。彼は倒れはしても、投げ落とされることはない。エホバがその手を支えておられるからだ」

ダビデはエホバの支えをたくさん経験しました。

では、ダビデの例から何を学べますか?

罪を犯した時、エホバに助けを求めるべきです。

そして多くの場合、エホバは長老たちをお用いになります。

子どもが真理から離れてしまったならどうですか?

ダビデはその悲しみを理解してくれるでしょう。

眠れない夜、涙、心痛、心配などを分かってくれます。

ダビデの子の1人、アムノンが娘のタマルをレイプします。

兄弟のアブサロムがアムノンを殺し、3年間荒野に逃げます。

聖書は、

「ダビデの魂はアブサロムのもとに出て行くことを切望した。彼はアムノンに関し自らを慰めたからである」

と述べています。

アブサロムは呼び戻されます。

彼は3年間、言ってみれば、殺人のために流刑にされていたようなものです。

恩赦に感謝したでしょうか?

いいえ。

ダビデから王権を奪おうとし、共謀して父親に反逆しました。

何を考えているんだろうと思われるかもしれません。

アブサロムが反逆した時、王になるのは自分ではなく、ソロモンだとエホバが言われたのを知っていたはずではありませんか?

その通りです。

エホバの目的を阻めると本当に考えたのでしょうか?

邪悪なアブサロムがとうとう死ぬと、ダビデは悲しみます。

かわいそうな息子よ、というわけです。

ダビデは邪悪な息子たちに甘かったようです。

放任的な親といえば、大祭司エリとその息子、ホフニとピネハスを思い起こされるでしょう。

そのことについて考えると、ダビデも多少放任的でした。

ソロモンが親たちに子どもたちを懲らしめるよう励ました時、ひょっとしたら自分の異母兄弟のことを念頭においていたのかもしれませんね。

ダビデは邪悪な息子たちをエホバの基準に従うよう育てられませんでしたが、できたこともあります。

家には、忠実な息子ソロモンがいました。

ダビデとバテ・シバは愛情をこめて、ソロモンが霊性を育めるよう育てることができました。

ソロモンの言葉である箴言 4章3節からそのことが分かります。

「わたしはわたしの父にとって実の子であり、わたしの母の前にあって、幼弱な、ただ一人の子だったからである。そして、彼はわたしを教え諭し」た。

ダビデはソロモンの霊性を強めるよう教えたことが分かります。

これはいつもうまくいくとは限りません。

2人の息子がいる家庭のことを考えましょう。

1人は真理から離れ、1人は留まっています。

両親はダビデのように心が乱され、息子のために悲しみにくれます。

理解できる状況ですが、真理に留まっている息子についてはどうですか?

両親を一度も悲しませたことのない息子のことは?

受けてしかるべき愛情を両親から受けるでしょうか?

それとも、親は出て行った息子のことばかり考えているでしょうか?

今日多くの仲間が、エホバへの信仰を実証しています。

信仰を保って2015年に亡くなった兄弟はこう述べました。

「人生は時に、予測がつかず、不確かで、対処しにくいことさえあります。それでもエホバは、ご自分に頼る者たちを祝福してくださいます」

どうしたらいいでしょうか?

「可能な限り産出的かつ活発に、奉仕できるように祈る」こと、「できないことにではなく、できることに思いを向ける」ことです。

これは別の割り当てに移る、旅行する監督たちへの素晴らしいアドバイスです。

また長年ベテルで奉仕してきて、今は部門監督ではない皆さんにも当てはまります。

彼らは自分にできる奉仕をしており、そのことに思いを向けておられます。

世は悪化の一途をたどっており、困難なことも経験します。

マゴグのゴグである諸国家の連合体が神の民に最終攻撃を仕掛ける時、逃れ道がないように思えるかもしれません。

わたしたちの最強の武器は信仰です。

それで、2017年の年句として、次の聖句が選ばれたのはふさわしいことです。

詩編 37編3節。

「エホバに依り頼み、善を行なえ」

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