2017年次総会「エゼキエルの神殿の幻とあなた」 - デービッド・スプレーン

テキスト

皆さん、見学ツアーを楽しまれましたか?

ウォーウィックの見学ツアーではありません。

ウォールキルやパタソンでもありません。

最近、エゼキエル書の朗読を通して体験することのできた神殿の見学ツアーです。

皆さん、楽しまれたでしょうか?

あれは、実に印象的でしたね。

想像できますか?

ご自分が非常に高い山に移動して、目をみはるような神殿やほかの施設を示す幻が与えられるんです。

それに、ツアーガイドにも驚きましたね。

銅のような外見のみ使いで、わたしたちに素晴らしいことを教えてくれました。

これらすべてにとても興味を引かれますね。

この幻にはどんな意味がありますか?

出版物の中ではこれまで長い間 、エゼキエルの見た神殿は、エホバの偉大な霊的神殿である、と述べられてきました。

そのような結論に至ったことには理由があります。

モーセの時代における幕屋とエゼキエルの神殿との間には、幾つかの類似点があるからです。

それで、エゼキエルの神殿と幕屋は、同じものを象徴している、と考えられました。

幕屋が象徴的に示していたのは霊的神殿だということを、わたしたちは知っていますね。

使徒パウロがそう言っているからです。

そして、幕屋とエゼキエルの神殿には相互に類似点がある、というのも事実です。

ただし、その2つの間には、大きな相違点もあります。

幕屋で特に重点が置かれていたのは、大祭司、それに大祭司が贖罪の日にささげる犠牲でした。

したがって幕屋は、偉大な大祭司イエスが将来行なう業やささげる犠牲に注意を向けていた、と言うことはできます。

では、エゼキエルが見た神殿についてはいかがでしょうか?

神殿には大祭司がいましたか?

いいえ。

では贖罪の日についての言及はあるでしょうか?

いいえ、ありません。

ですから、幕屋とエゼキエルの神殿との間には相違点がある、ということが分かります。

最初にはっきりお伝えします。

エゼキエルが見たのは、霊的神殿ではありません。

その理由を考える前に、レッシュ兄弟が霊的神殿について教えてくれたことを確認しましょう。

どんなことでしたか?

レッシュ兄弟は、これは取り決めですと言いましたね。

でもそれだけではありません。

兄弟は「キリストの犠牲に基づく崇拝の取り決めです」と言ったのです。

キリストの犠牲についてどんなことを知っていますか?

お手持ちの聖書の、ヘブライ 9章をお開きください。

ヘブライ 9章です。11節と12節をお読みしましょう。

ヘブライ 9:11, 12

パウロはこのように書いています。

「しかし、キリストは、すでに実現した良い事柄の大祭司として来た時」

そうです 霊的神殿は「すでに実現した」のですから、イエスの時代にはすでに霊的神殿が存在していました。

「手で造ったのではない、すなわちこの創造界のものではない、より偉大で、より完全な天幕を通り、そうです、やぎや若い雄牛の血ではなく」

ではなく

「ご自身の血を携え、ただ一度かぎり聖なる場所に入り」ました。

この聖句から学べる点は何でしょうか?

イエスの犠牲が「ただ一度かぎり」ささげられたので、やぎや若い雄牛の血はもう必要ないということです。

犠牲は一度で十分ということです。

それからは、穀物の捧げ物も、罪科の捧げ物も、全焼燔の捧げ物も、罪の捧げ物もありません。

なぜならキリストの一度の犠牲で十分だからです。

霊的神殿の中心にあるのはキリストの犠牲です。

ではエゼキエルの神殿の見学ツアーで何が見えましたか?

穀物の捧げ物、罪の捧げ物、罪科の捧げ物、雄牛とやぎの血、そして祭司たちの清めです。

でも霊的神殿の場合、皆がキリストの血に対する信仰により義と宣せられています。

このように、エゼキエルの神殿の相違点について見ることができました。

エゼキエルとパウロはまったく別のものについて述べています。

もし皆さんがメモを取っておられるなら、ここはちょっと書いておいてください。

パウロから学べる点は、崇拝のためのエホバの取り決めです。

エゼキエルから学べる点は、崇拝に関する、

いいですか

崇拝に関するエホバの規準です。

エゼキエルから学べる点は、崇拝に関するエホバの規準なのです。

ではエホバの規準について、エゼキエル書の9つの章から何が分かりますか?

それはエホバの規準が高いということ、そうです、非常に高いということです。

では考えてみてください。

エゼキエルの神殿はどこにありましたか?

普通の高さの山、モリヤ山やエルサレムのオリーブ山でしょうか?

いいえ、それは「非常に高い山の上」にありました。

非常に高い山の上にある神殿。

非常に高い山の上にあるエホバの家。

山の頂より上にある。

聞き覚えがありますか?

こういう表現を聖書で読んだことがありませんか?

そうです、イザヤ 2:2です。

読んでみましょう

イザヤ 2:2です。こうあります。

「そして、末の日に」

これは西暦29年ではないようですね

「末の日に、エホバの家の山はもろもろの山の頂より上に堅く据えられ、もろもろの丘より上に必ず高められ、すべての国の民は必ず流れのようにそこに向かう」

この預言は、エゼキエルの神殿の幻について、おもな成就がいつかを理解する助けになります。

それは西暦29年に霊的神殿が初めて登場した時ではありません。

そうではなく、「末の日」なのです。

「もろもろの山の頂より上に堅く据えられ」ているものは何でしょうか?

わたしたちは答えを知っています。

エホバの崇拝ですね。

エホバの崇拝が「もろもろの山の頂より上に」据えられるのが「末の日」なのであれば、エゼキエルの神殿の幻が成就するのも「末の日」のことであるに違いありません。

西暦29年ではないのです。

さて、この幻の中で高くなっているのは、山だけではありません。

ご存じのとおり、神殿域へ通じる門は高さが30メートルにもなっています。

そして入り道には監視の間があって、清くない人が中へ入ってこないようになっています。

どうしてですか?

それは、エホバの高い道徳規準が重んじられなければならないからです。

エゼキエルの神殿にはもう一つ際立った特徴があります。

神殿域の周辺を丸ごと囲む壁です。

壁の長さは一辺が1.6キロメートルもありますが、神殿そのものは一辺が260メートルほどでした。

それで神殿域は比較的小さく、その周囲が広々としていることになります。

挿絵があります。理解しやすいかもしれません。

神殿が中央にあって周辺は広々としており、壁が囲んでいるのが見えますか?

なぜこうなっているのでしょうか?

エホバはエゼキエル 43:9で答えておられます。

「彼らにその淫行……をわたしのもとから遠くへ取り除かせよ」

古代エルサレムの造りをご存じの方ならこの意味が分かるでしょう。

エルサレムの神殿と市内の住宅地を隔てているものは壁一枚だけでした。

したがって、その住民が偶像崇拝をするようになり、不道徳やあらゆる種類の忌み嫌われるものを自分たちの家に持ち込んだということは、神殿の壁のそばまでそれを持ってきたということでした。

それでエホバ神は、

「もういい!たくさんだ!それを遠くへ取り除きなさい」

とおっしゃったのです。

さて、エゼキエルの神殿の幻にはおもな成就と小規模な成就があります。

まず、小規模な成就について考えます。

8章でエゼキエルは、ソロモンの神殿が機能していた時代に広まっていた状態を説明しています。

70人が「はうものや忌み嫌うべき獣」に香をささげ 、「二十五人ばかりの人が……太陽に身をかがめ」 、女性たちは「神タンムズのために泣いて」いました。。

とはいえ、エゼキエルは、神殿の幻を見た時に、そんな人はいなかったので安心したことでしょう。

代わりに、清い崇拝がよく知っている方法で、またエホバの是認を得られる仕方で実践されているのを目にしました。

ですからユダヤ人は、バビロン捕囚から解放されてからは、受け入れられる仕方でエホバを崇拝することができるようになります。

バビロン捕囚から解放されてからは、エホバの是認を得られるような仕方で、清い崇拝を回復することができるようになるのです。

ところで、この話の主題は「エゼキエルの神殿……とあなた」です。

では、わたしたちはこの幻とどんな関係がありますか?

それは明らかです。

わたしたちはエゼキエルの神殿の幻がおもな成就を見る時代に生活しています。

そのおもな成就として、真の崇拝が回復されるのを見ています。

いつからですか?

特に「エホバの家の山」が山の頂より上に高く上げられたのはいつからでしょうか?

1919年からです。

ぴったりですね。

1919年は、エホバの民が大いなるバビロンへの捕らわれから自由になった年でもあるからです!

わたしたちは大いなるバビロンへの捕らわれから自由になった時から、清い崇拝が高められ 、ますます良いものになっているのを目にしています。

その時から、エホバはわたしたちが高い規準を受け入れることができるよう、漸進的に導いてくださっているのです。

神の高い道徳規準について考えてみてください。

長老たちが「この人は規準を満たしている」と承認した人でなければ、誰も組織にとどまることはできません。

わたしが伝道者になった65年前を思い出します。

皆さんの中には、わたしより長い伝道者の方もたくさんいらっしゃいますね。

65年前に伝道者になったときを覚えていますが、わたしはただ報告を出すだけで、誰からもどんな質問も受けませんでした。

承認されなくてよかったんです。

バプテスマのための質問も、長老たちとは討議しません。

長老がいませんでした。

今は違いますね。

ご自分の規準を受け入れることができるよう、エホバが時間をかけてこられた様子が分かります。

悔い改めない悪行者はどうですか?

今はそのような人が会衆にとどまることはできませんが、そうでなかった時期もありました。

ですから、エホバ神が漸進的に導き、わたしたちがご自分とさらに良い関係を持てるようにしてくださっているのが分かります。

霊的な面でも民を清めてこられました。

1919年以来、何がありましたか?

エホバの民は、清い崇拝から霊的な汚れを遠くにやるよう努力しました。

偽りの教理も、偶像礼拝や、異教で汚された慣行も退けました。

その結果どうなりましたか?

エホバはご自分の民を祝福され、それを示す紛れもない証拠があります。

諸国民は、流れのように「エホバの家の山」に向かっています。

それは、神がその民と共におられることを聞いたからです。

それでは、この短い話からどんなことを学んだでしょうか?

霊的な神殿は崇拝のためのエホバの取り決めを示しているのに対し、エゼキエルの神殿は崇拝に関する神の規準に重点を置いているということです。

さらにありますか?

霊的神殿の取り決めは西暦29年からのものですが、エゼキエルの神殿の幻が成就したのは1919年からだということが分かりました。

わたしたちはみ使いのツアーガイドに感謝しています。

注目に値する神殿への訪問ができたからです。

さらに、この注目に値する幻が現代のわたしたちにどんな意味を持つのか、理解できるよう助けてくださったエホバ神に、感謝したいと思います。

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