この話をお聞きになりながら、「新しい理解だ」ともし感じたら、それは勘違いです。
理解の調整は扱われません。
草むらの中に、シカの親子がいるとしましょう。
お母さんシカがまだ幼い我が子に向かって、「ここにじっとしていなさい」と言い、しばらくその場を離れます。
お母さんの命令に従順であれば、子ジカの命は守られます。
さて、ご自分の幼かった頃のことを思い出して下さい。
ご両親はあなたを守るため、従うべき命令をお与えになったでしょう。
聖書を開いて、エフェソス人への手紙を見ましょう。
6章の幾つかの聖句をご一緒に読みたいと思います。
こうあります。
「子供たちよ、主と結ばれたあなた方の親に従順でありなさい。これは義にかなったことなのです。『あなたの父と母を敬いなさい』とあり、これは約束を伴った最初の命令です。すなわち、『それはあなたにとって物事が良く運び、あなたが地上で生き永らえるためである』」
たとえ大人でも、天の父エホバにとっては、子どもです。
これからもずっとそうです。
エホバはわたしたちに従順な子どもであることを期待しておられます。
わたしたちが自分の子どもに期待することと同じです。
子どもが親に従順であること、親の提案や命令に従うことを期待します。
エホバに全面的に従うなら、守られます。
今読んだ聖句は、幼い子どもにだけではなく、大人にも当てはまります。
「それはあなたにとって物事が良く運び」と書かれていますが、大人も、物事がうまくいくことを願います。
それがわたしたちの目標です。
エホバから「よくやった」と言ってもらえるよう、エホバに忠節に、また忠実に仕えたいと思います。
さて、子どもって自分のお父さんによくこう言いますね。
「なんで?」
際限なく尋ねます。
「なんで?」
「なんで? なんで鳥さんは歌ってるの?」
「なんで? なんで空は青いの?」
ひっきりなしに「なんで?」と聞いてきます。
親はこう答えることもあります。
「なんでじゃなくて、いいからしなさい」
簡潔な答えです。
親がそのように簡潔に答えるのはなぜかというと、その子がまだ幼すぎて質問の答えを理解できないからかもしれません。
その子どもが本当に知りたがっていること、それを説明してあげるにはまだ幼すぎるという場合があります。
例えば、こういう状況を考えてみましょう。
5歳の女の子がママに尋ねます。
「ママ、食べ物がなくて赤ちゃんが死ぬとき、なんでエホバは何もしないの?」
テレビでちょうどそういう場面が流れています。
食糧不足で幼い命が奪われています。
「いい質問ね」
我が子を抱き寄せ、ママは答えます。
「主権の論争と関係があるの。はるか昔に、それが提起されたのよ」
幼い頃この子と同じ質問を考えていた、という方もおられるでしょう。
聖書の知識がないまま、大人になってからも、それについてずっと考えていたかもしれません。
「なぜ神は」
お名前がエホバとは知らず、
「なぜ神は幼い子どもたちが飢えて死ぬのをお許しになるのか?」
赤ちゃんがママにしがみつき、ママのおっぱいからはお乳が全く出ない。1滴も。
そんな場面を映像で見ると、心に浮かんでいたでしょう。
「なぜ?」と。
でも今は、その答えを知っています。
知っているだけではなく、その答えを得るよう、多くの人を助けてきたことでしょう。
そのような子どもたちの死は、神の責任ではなく、責任は別のところにある、また、神がすぐに助けてくださらないのはなぜか。
…はるか昔に提起された問題のことをわたしたちは知っています。
その問題が必ず解決されることもです。
ここで考えたいのは、水源の清さを保つための命令をエホバがイスラエル人に与えたことです。
それがなぜなのか、エホバはおっしゃいませんでした。
ばい菌が関係していましたが、肉眼では見えません。
顕微鏡が発明されたのは1590年代です。
それでもイスラエル人は、その命令が保護になると信じて従う必要がありました。
今日も、わたしたちを守るためのエホバの命令を信じて従う必要があります。
そしてエホバに聴き従うとき、祝福されます。
それでまたわたしたちは、エホバに聴き従いたいと思います。
なぜでしょうか。
たくさんの理由があります。
1つは、エホバは創造者、命の与え主、生命維持者だからです。
エホバが愛の神でなければ、だれ一人存在していません。
死に絶えています。
また、別の理由は、エホバが他のだれよりも長く存在しておられるからです。
将来永遠の命を与えられても、エホバが存在しておられる年数に追いつくことはできません。
エホバの経験は、今も、また将来のどの時点においても、わたしたちの経験を上回っています。
人類が過去も未来も成し遂げることができないことを、エホバは成し遂げておられます。
わたしが幼かった頃のことをちょっとお話ししたいと思います。
暖炉のある小さな家に住んでいました。
冬になると、家族で居間にあるその暖炉を囲み、石炭や薪をくべていたものです。
時々、真っ赤な炭の破片が暖炉から弾け飛んで、じゅうたんや床板に落ちることがありました。
父は素手でそれを拾って、暖炉にポイッと戻していました。
幼いわたしはそれを見て「簡単」と思い、次に破片が飛んできたときそれをつかんで・・・
2度としませんでした。
学んだんです。
父は長年、ラバの手綱を引いて荷を運ぶ仕事をしていましたから、手の皮がすっかり分厚くなり、感覚が鈍くなっていました。
まるで牛革のようでした。
父は自分の手のことを分かっていて、ちょっとだったらやけどせずに炭をつかんで暖炉に戻せると知っていました。
わたしは知りませんでした。
幼かったので、父の手についての知識がありませんでした。
わたしが生まれた時、父は56歳で、今もし…生きていれば、138歳です。
若い父ではありませんでしたが、わたしにとって、本当に良い父、強くたくましい父でした。
エホバは太陽を創造なさいました。
太陽は非常に熱く、表面温度は5600度です。
その中心部では、1500万度という熱さになります。
遺体を火葬するための炉の温度は1000度に満たないくらいで十分です。
その温度で人間の体は燃えて灰になってしまいます。
ちょっとイメージを膨らませましょう。
わたしたちが知っている事実としては、エホバが太陽を創造した、ということだけで、それ以上のことはもちろん分かりません。
でもあえて、エホバの偉大さについてイメージがわくように表現するとすれば、エホバはこの太陽を手の中で転がすことができます。
これこそわたしたちの神エホバです。
新しいエルサレムに太陽の光は要りません。
啓示 21:23によれば、「神の栄光がそれを明るく照らし」ます。
エホバの指示に従うとき、わたしたちは完全に守られます。
それで、わたしたちは大患難で生じることについて心配しません。
わたしたちが心配する必要があるのは、大患難の前に生じることです。
悪魔はありとあらゆることを行なって、わたしたちが持つ神とのきずなを破壊しようとします。
わたしたち一人ひとりに対してです。
だれかを選んでそうするわけではありません。
悪魔は、一人ひとりすべてが、主権の論争において自分の側に来るよう、策を巡らしています。
試練を与えずにほっておくつもりはありません。
既に限界まで試された方もおられるでしょう。
周りは気づかなくても、エホバはご存じです。
もし極限まで試されているなら、それを超える試練はなく、将来試練があってもきっと切り抜けられるでしょう。
ともあれ、エホバの指示に従い、その道を歩まねばなりません。
聖書によれば、人類が歩む道は2つしかありません。
マタイ 7:13, 14はこう述べています。
「狭い門を通って入りなさい。滅びに至る道は広くて大きく、それを通って入って行く人は多いからです。一方、命に至る門は狭く、その道は狭められており、それを見いだす人は少ないのです」
皆さんは今、広い道にはいません。
その道を行く人々は、「自分のしたいようにする」不従順な人々です。
その邪悪な大通りでいわばダンスをしているかのような人が大勢います。
しかし皆さんは狭められた道を選んでいます。
エホバは、わたしたち一人ひとりにこの狭い道を通るよう指示しておられ、ご自分のもとに引き寄せておられます。
わたしたちの心の中をご覧になってそうしておられます。
この点で、注意していないと、エホバと同じ見方ができなくなります。
仲間の兄弟の欠点が目に留まり、その兄弟を表面的に判断するかもしれません。
でもエホバは、その兄弟の欠点を見過ごし、それをキリストの血で覆うことをよしとされます。
エホバはその兄弟の良い所を探し、良い所を見ます。
その人に生き続けてほしいとお感じになります。
わたしたちにはその人の良さが見えなくても、エホバには見えていて、その人を助けようとされます。
さて、近い将来、わたしたちの従順は今までにないレベルまで試されます。
これまでの試練で示してきた自分の強さに頼らないようにしましょう。
自分にはエホバととても強いきずながある、自分はとても清い、だからプレッシャーがあっても罪を犯さないなどと、考えるべきではありません。
従う習慣をいま身に着けましょう。
大きな試練が来てからではありません。
ペテロは、とても強い信仰を持っていました。
しかしペテロも、またほかの使徒も、イエスが捕縛された夜に怖くなって逃げました。
ペテロは途中で引き返し、でもやっぱり、イエスの近くにまで行けません。
問い詰められて、「わたしはあなた方の話しているこの人を知らないのだ」と誓いさえしました。
マルコ 14:71にある通りです。
ペテロでさえこうでした。
ペテロよりわたしたちは強いでしょうか。
何とも言えませんが、強くないかもしれません。
それで、真理のうちにとどまり続けましょう。
真理のうちを歩んでいる年数に頼ってはなりません。
エホバに固く付き、エホバに従うことによってのみ、真理のうちにとどまれます。
エホバは、バランスを取れるよう助けてくださいます。
わたしたちは、バランスの取れた状態を保つために、できることをすべて行ないたいと思います。
ふらついたり離れ落ちたりすることなく、この道を歩いていくためです。
エホバとイエスのおかげで、わたしたちは今、真理のうちにいます。
エホバに100パーセント頼りましょう。
聖書に、「エホバに依り頼んでいる者は保護される」とあり、この話が一言でまとめられています。
従うことと祈りによって保護されます。
霊的に目覚めているためには、仲間の兄弟姉妹からの助けが必要です。
聖書にこうあります。
「互いのことをよく考えて、愛とりっぱな業とを鼓舞し合い、ある人々が習慣にしているように集まり合うことをやめたりせず、むしろ互いに励まし合い、その日が近づくのを見てますますそうしようではありませんか」
このような状況を想像してください。
夜、雨の中、車を運転しています。
車の屋根に雨が打ち付ける音、右、左、と繰り返すワイパーの音、対向車のライトで視界が悪いこと、すべてが眠気を誘います。
まぶたが閉じそうになったまさにその時、
パチン!
妻のビンタが飛んできます。
助手席から。
眠気が吹き飛びます。
ありがたいビンタと思ったでしょう。
…妻は。
一つ一つの集会は、いわば愛のビンタで、霊的に目覚めた状態を保たせてくれます。
それで、守られるため、従い、真理にとどまりましょう。
命はそれにかかっているからです。