イエスは、ある若者についてのたとえ話をされました。
その人は、親元での平和で繁栄した生活を捨てて、惨めで悲惨な放とうの生活に陥りました。
愚かなことに、多くを犠牲にして、得たのはわずかでした。
これは、ルカ 15章の放とう息子の話です。
それに対して、イエスが話した、マタイ 13章の旅商人は、自分の持ち物すべてを売って、値の高い真珠1つを買いました。
このたとえ話の趣旨から分かるように、彼は実際にはわずかな犠牲で多くを得たのです。
皆さんは当然、放とう息子のようにではなく、あの旅商人のようになりたいことでしょう。
エホバは、皆さんが多くの犠牲でわずかしか得られないのではなく、わずかな犠牲で多くを得てほしいのです。
豊かに与えたいと願っておられます。
だからこそエホバは、わたしたちが賢く生きられるように、先ほどの2つのたとえ話や、そうした対照的な生き方を示す実話を聖書に含めたのです。
ではこれから、聖書中の愚かな4人の実話から、多くの犠牲でわずかに得た例を考慮し、さらに別の4つの模範から、わずかな犠牲で多くを得た例に注目します。
最初の例はサタンです。
サタンは計り知れないほど長い間、エホバに仕えていましたが、そのかけがえのない貴重な関係を捨ててしまいました。
それと引き換えに何を得ましたか?
エホバから独立した、短くて惨めな命です。
最終的には、「火の湖」での滅びを身に招きます。
サタンは現在、少しも幸福ではありません。
エホバについては、テモテ第一 1:11に「幸福な神」とあり、イエスはテモテ第一 6:15で「幸福な……大能者」と呼ばれ、詩編 33:12では「エホバをその神とする国民……は幸いだ」とあります。
でもサタンについては、幸福そうな描写が全くないですね。
怒ったほえるライオン、日夜訴える者、自分の時の短いことを知り大きな怒りを抱いている者として描かれています。
幸せそうに見えませんね。
サタンはなぜ、ほんのわずかを得るために多くを捨てたのでしょうか?
誇りです。
誇りのために、自分は神より賢いと思うまでになったのです。
粘土が陶器師より賢いことなどあり得るでしょうか?
サタンは高慢になって、エホバなしのほうがより良い生き方ができると考えたのです。
わたしたちは高慢にも、自分のほうがエホバより分かっているなどと思わないようにしましょう。
例えば、排斥者への接し方、悪い交友を避けるべきこと、主にある者とだけ結婚すること、などに関してです。
高慢にも、この世に従ってエホバから独立すれば、幸福になれるなどと考えることが決してないようにしましょう。
サタンの例を思い起こしましょう。
誇りによって、わずかなもののために多くを手放さないようにしましょう。
2つ目の例はアダムとエバです。
サタンは、自分がまさに望んでいた、神のようになるという見込みを差し伸べました。
愚かにも、本当に愚かなことに、彼らはサタンのうそを信じてしまいました。
最高の父親とのこの上なく貴重なきずなを身勝手に捨てました。
楽園の住みかも、完全な永遠の命も、子孫の幸福な将来の見込みも捨てました。
代わりに何を得ましたか?
エホバから独立した、短くて惨めな命です。
最後は無存在になって、すべてを失います。
多くの犠牲でわずかしか得られなかった顕著な例です!
アダムとエバの例から学びましょう。
サタンのうそにだまされて、わずかなもののために多くを犠牲にしないようにしましょう。
「お金や物があれば幸せだ」とか、「不道徳は楽しい」といったうそです。
アダムとエバのようにわずかなものと引き換えに多くを犠牲にしないよう、サタンのうそを退けましょう。
3つ目の例はエサウです。
彼はサタンやアダムとエバの話を知っていましたが、教訓を学んだでしょうか?
いいえ、彼も神聖な物事の価値を認識しませんでした。
エサウはイサクの長男で、それは聖書時代、価値ある立場でした。
でも彼は、今、自分が欲しいものだけを考えていました。
創世記 25:32によると、彼はお腹がすいていて、「すぐにも死にそうだ」とわめきました。
本当にそうだったのでしょうか?
長子の権を手放す代わりに、もう少し辛抱できたのではないでしょうか?
すぐに彼は自分の間違いに気づきます。
価値あるものを売ってしまったのです。
何のためでしたか?何を得ましたか?
パンとひら豆の煮物だけです。
お肉すら入ってなかったようです。
ベテル奉仕者は、パンも豆もお肉も、プロビジョンルームで提供されますね。
エサウの例から何を学べますか?
ヘブライ12章をご覧ください。
ここでエホバは、エサウから学べる大変興味深い教訓を教えておられます。
ヘブライ 12:16です。
「そして、淫行の者、またエサウのように、神聖な物事の価値を認識しない者が出ることのないようにしなさい。彼は一度の食事と引き換えに長子としての自分の権利を手放しました」
興味深いことに、淫行の者とエサウのしたことが比較されています。
考えてみるとどちらの場合も、自制心がなく、肉の欲望に屈しています。
それがエサウのしたこと、また性的に不道徳な人のすることです。
不道徳と引き換えに、比喩的な長子の権、つまり新しい世でのエホバからの相続財産を売ることなど決してありませんように。
それに、エサウはパンと煮物を食べてどれほどもちましたか?
効果はどれだけ続きましたか?
数時間でしょうか?しばらくしたらまたお腹がすいたでしょう。
同じように、不道徳に伴ういわゆる楽しみはどれほど続きますか?
わずかな間だけです。
その後は、良心のかしゃくを含め、悲惨な結果を刈り取ります。
4つ目の例は、イエスの時代の若くて裕福な支配者です。
彼は高い地位と多くの所有物を有していて、しかもイエスは彼に愛を感じていました。
では彼は、自分の富を手放して、イエスの追随者になるというはるかに貴重で永続する宝を得る心構えがありましたか?
いいえ。
イエスが招いた時、聖書によると悲嘆しながら去って行[きました]」。
多くの所有物を手放せなかったのです。
代わりに、輝かしい将来を手放してしまいました。
手放すものを間違えましたね。
イエスに従った人たちはどこにいますか?
天で不滅の王また祭司として、イエスと共にエホバの前にいます。
一方、あの若い支配者は、生き方を変えていないなら、彼自身も所有物も今、塵になっています。
わずかなもののために多くを犠牲にした典型です。
わたしたちは、世の物質的な誘惑に負けて、新しい世での最高の将来を手放したりしないよう決意しましょう。
さて、4人の悪い例を考慮してきましたが、これから、わずかな犠牲で多くを得た4つの良い模範を見てみましょう。
1人目はアブラハムです。
エホバの招きに応じて、アブラハムは繁栄した都市ウルでの快適な生活を後にしました。
エホバの招きに応じて、家族を連れて危険な長旅をし、約束の地で喜んで、ずっと天幕生活をしました。
彼は払った犠牲に対して何を得ましたか?
エホバとの永続的な友情です。
エホバご自身、彼を「わたしの友」と呼んでおられます。
その信仰ゆえに、エホバはアブラハムの子孫の一人を通してすべての国民を祝福する、と約束されました。
その子孫、つまりメシアであるイエスは、間もなくアブラハムを真の命へと復活させます。
では、わたしたちは、例えば全時間奉仕を始めるために、所有物や快適な暮らしを進んで後にするでしょうか?
あるいは、必要の大きな所へ移動して、エホバとの永続的な友情を強められるでしょうか?
アブラハムのように、わずかな犠牲で、多くを得ますか?
2人目はモーセです。
アブラハムよりもずっと後に生まれたモーセも、正しい犠牲を払いました。
ファラオの宮殿で王族として育てられ 、名声を得るための教育を受けました。
エジプトの進んだ文明や、文化にも精通しました。
でも聖書は、モーセがエジプトで成し遂げた業績を事細かに述べていません。
なぜでしょうか?
それは、エホバへの奉仕で彼が行なったことに比べれば、エジプトでの業績は全く取るに足りないものだからです。
モーセは、イスラエル国民をメシアに導く律法を受けました。
預言者の中で彼だけが、エホバを「顔と顔を合わせて」知りました。
モーセは神からの任務を果たすためエジプトでの生活を後にしました。
古代エジプトの富や繁栄はと言えば、博物館でその遺跡を見られるだけです。
しかし、モーセは、神の恵みと真の命を得ました。
エホバの民の歴史に残り、わたしたちにとっていつまでも大切な存在となることでしょう。
さて、3人目はイエスです。
犠牲にしたものよりはるかに多くを得た、最高の模範です。
アブラハムやモーセのように、快適な生活を喜んで後にしました。
天でエホバのそばで過ごす生活を後にしたのです。
自分を無にして人のような様になり、人々に仕えました。
自分の命さえ与えました。
エホバが復活させてくださると確信していたのです。
その結果、大きな喜びを得ました。
天の父の義なる目的を果たし、愛する人類を請け戻すことにあずかれたからです。
おそらくイエスは自分が払う犠牲に対してどれほど多く受けるかを十分理解していなかったでしょう。
ヨハネ 17:5で、
「父よ、世がある前にわたしがみそばで持っていた栄光で、わたしを……栄光ある者としてください」と言われたからです。
つまり、「父よ、わたしが以前持っていたものをお与えください」と言われたのです。
しかしエホバは、はるかに多くをお与えになりましたね。
エホバはいつもそうされます。
払う犠牲以上をくださるのです。
エホバはイエスに、み使いたちよりも優れた名をお与えになりました。
天と地におけるすべての権威もお与えになりました。
さらに、不滅性と不朽をもお与えになりました。
そうです、滅びることのない命、つまり滅びることのない体をお与えになったのです。
4つ目の模範は、イエスの使徒たちです。
ペテロ、アンデレ、ヤコブとヨハネは、漁師の仕事を後にしましたね。
他の使徒たちも、「すべてのものを後にし」ました。
ペテロはこう尋ねました。
「すべてのものを後にして、あなたに従ってまいりました。実際のところ、わたしたちのためには何があるのでしょうか」
イエスは、だれでもわたしや良いたよりのためにお金や物、家族さえ後にした人は、今百倍を得ると保証されました。
これは1万パーセントの利益ですね。
その上、永遠の命も得られます。
現に今、使徒たちはどこにいますか?
イエスのように、不滅性と不朽を備えた霊者となっています。
啓示 20章を開いて、彼らについて何と述べられているかを見てみましょう。
啓示 20章6節にこう書かれています。
「第一の復活にあずかる者は幸いな者[そうです、幸福であり] 、聖なる者である。これらの者に対して第二の死は何の権威も持たず、彼らは神およびキリストの祭司となり、千年のあいだ彼と共に王として支配する」
この聖句から、使徒たちが幸福のうちに仕えることが分かります。
なぜ幸福になりますか?
使徒 20:35のとおり、「受けるより与えるほうが幸福」だからです。
「与える」面で、その千年はすばらしい機会となります!
人類が、地球全体を最初に意図された状態に変えるのを支援するのです。
彼らはキリストと密接に働きます。
墓の中から死者を復活させ、徐々に完全さに達するように人々を助けます。
千年の後には悪魔サタンと悪霊たちを最終的に打ち砕くのです。
これらの仕事を行なう時、どれほど幸福でしょう!
でも、幸福の主な理由は何ですか?
それは、神の王国の一員となることです。
王国によって、エホバはご自分のみ名を神聖なものとし、立証するからです。
ジャクソン兄弟の話で学んだ新しい理解をいち早く適用しようと思いました。
確かに使徒たちにとって、エホバのお名前、つまり評判を立証することこそ、最高に幸福なことなのです。
使徒たちがわずかなもの、つまり仕事や、世俗的な関心事を後にした時、その結果どれほど多くを得られるかは、想像もつかなかったことでしょう。
これまで、アブラハム、モーセ、イエス、使徒たちについて考えました。
彼らは皆、間違いなく、自分が得たものと比べれば、犠牲にしたものは本当にわずかだった、と心から言うでしょう。
わたしたちはどうですか?
大なり小なり、みんな何かを犠牲にしていますね。
時間や体力、お金、所有物でしょうか。
この世での名声を犠牲にしなければならないかもしれません。
でも、わたしたちも、これらの模範となる人たちと同じ経験をするのです。
払ったどんな犠牲よりも、はるかに上回るものを必ず得るのです。
実際、ほとんど何も犠牲を払っていないように感じる方も多いでしょう。
昔の忠実な人たちのように百倍を今、得ているのです。
そして、真の命も得られるのです。
ただし、わずかなものを得ようとして、多くを犠牲にしないならば です。