2019年次総会「北からの攻撃」 - デービッド・スプレーン

テキスト

北からの攻撃。

何の話でしょうか?

マゴグのゴグの攻撃ですか?

いいえ。

バッタの災厄という攻撃についての話です。

そのバッタは北の方からやって来ます。

ヨエル 2章にその災厄について書かれています。

ご一緒に読んでみましょう。

幾つかの節を考慮しますので、その部分を開いたままにしておいてください。

ヨエル 2:7-9です。

バッタの災厄という攻撃です。

バッタの大群です。

ヨエル 2:7からです。

「戦士のように突撃してくる。兵士のように城壁をよじ登ってくる。それぞれが自分の進路から離れず、道からそれない。押し合うこともなく、それぞれが自分の進路を行く。誰かが矢に撃たれて倒れても、誰も隊列を乱さない。町の中へ突き進み、城壁の上を走る。家々に上り、泥棒のように窓から入り込む」

ご存じの通り、実際の昆虫について述べられているわけではありません。

8節には、「自分の進路を行く」人たちのことが書かれています。

ここでは人々がバッタに例えられています。

バッタのような性質を持つ人々です。

ここで考えたい点があります。

その人たちは良い人たちですか? 悪い人たちですか?

長年私たちは、良い人たちだと理解してきました。

「ものみの塔」2009年4月15日号にも、そのような説明があります。

そこにはエホバの民だと述べられています。

王国の良い知らせを伝えるエホバの証人です。

なぜそのように理解されていたのでしょうか?

まず、彼らの伝道をやめさせることはできません。

伝道するためにどこまでも進んでいきます。

泥棒のように窓から入ることはないにしても、あらゆる手段で伝道し続けます。

反対が城壁のように立ちはだかっても、それをよじ登って良い知らせを伝え続けるのです。

7-9節だけを読むと、この説明はもっともに思えるかもしれません。

しかし、預言を正確に理解するには、文脈を考慮する必要があります。

ヨエル 2章の文脈を見ると、理解を調整しなければならないことに気付きます。

なぜでしょうか?

幾つかの理由を考えましょう。

文脈を考慮する必要がありますので、ヨエル 2:20を読んでみましょう。

そこには、北から来るバッタのことが述べられています。

それらのバッタをエホバがどう見ているかに注目しましょう。

良い人たちでしょうか、それとも悪い人たちでしょうか?

20節。

「私は北から来る者たちをあなたたちから遠ざけ、乾いて荒れ果てた所に追いやる。彼らの前衛を東の海に……追い払う」

ここでエホバは、「北から来る者たち」、つまりバッタを遠ざけると言っています。

もしバッタが良い知らせを伝える伝道者なら、なぜエホバによって遠ざけられるのでしょうか?

では、エホバはバッタをどう見ていますか?

20節の最後の部分を読んでみましょう。

「彼らからひどい臭いが立ち上り、悪臭が立ち込める」

不快ですね。

バッタは良い人たちではなさそうです。

エホバはバッタを遠ざけます。

害虫駆除です。

エホバはこれらのバッタが嫌いなのです。

25節もご覧ください。

エホバはこう言っています。

「群がるバッタ、羽のないバッタ、食い荒らすバッタ、食らい付くバッタ。あなたたちの所に私が送り込んだ大軍が食い尽くした年月を、私は埋め合わせる」

バッタが王国について伝道する人々を表すのであれば、エホバはなぜバッタがもたらす被害を「埋め合わせる」と述べているのでしょうか?

王国伝道者であれば、人々の命を救うために活動しているはずです。

その活動が被害をもたらすはずはありません。

エホバがそれを「埋め合わせる」必要もないはずです。

ここまで考慮した理由に加えて、さらに別の点も考えましょう。

出来事の順序です。

28節をご覧ください。

その前半を読みます。

この出来事は、エホバがバッタを遠ざけた後に起きたという点に注目してください。

その時点で、バッタは甚大な被害をもたらし、土地を荒廃させ、全ての草木を食い尽くしていました。

それからエホバは、「北から」やって来たそれらのバッタを遠ざけたのです。

ではその後何が起きたか、28節を読みましょう。

「その後[バッタが遠ざけられた後]、私は聖なる力をあらゆる人に注ぐ」

考えてみてください。

もしバッタが伝道者たちを表しているとしたら、伝道が完了した後で聖なる力が注がれることになります。

そうだとしたら、私たちは聖なる力の助けを得ずに伝道してきたことになります。

でも、聖なる力の助けがなければ、伝道を続けることはできません。

皆さんもきっとそうお感じでしょう。

ですから、預言の理解を調整しなければならないことは明らかです。

しかし、ある人は啓示、9章について尋ねるかもしれません。

啓示 9章のバッタは「人間の顔」を持ち、頭に「金の冠のような物」をかぶっています。

そして、悪い人たちを苦しめます。

それで、「このバッタは、天に行く希望を持つ人々と、彼らの活動を表しているのではないか」と言うかもしれません。

それは正しい理解です。

確かに、啓示 9章とヨエル 2章には似ているところがあります。

でも、大きな違いもあります。

例えば、ヨエルの預言では、バッタは北からやって来ます。

草木を食い荒らし、遠ざけられます。

一方、啓示に出てくるバッタは、底知れぬ深みから出てきます。

草木を「損なってはならない」と告げられます。

遠ざけられることなく、務めを完了します。

ですから、それぞれのバッタには、幾つもの違いがあります。

どういう結論になりますか?

啓示のバッタとヨエルのバッタは同じものを表してはいない、ということです。

聖書のある書で使われている象徴表現が、別の書では全く違う意味で使われることはよくあります。

啓示 5:5ではイエスが「ユダ族の者であるライオン」と呼ばれていますが、ペテロ第一 5:8では悪魔サタンが「ほえるライオン」と呼ばれています。

同じ象徴表現でも、意味は全く違います。

もしバッタがエホバに仕えている人ではなく、悪い人たちを指すのであれば、別の説明が必要になります。

バッタは誰を表しているのでしょうか?

答えはそれほど難しくありません。

ヨエルは軍隊の攻撃について予告しています。

エホバはバッタのようなバビロニアの兵士たちを用います。

エホバはご自分の民を捕虜にするバビロニアの兵士たちを、「私[の]大軍」と呼んでいます。

バビロニアの軍隊は北方からイスラエルを攻めてくるので、「北から来る者たち」と呼ばれています。

バッタがバビロニアの兵士たちを指していると考えて、ヨエル 2:8, 9を読むと、つじつまが合います。

では、もう一度8節と9節を読んでみましょう。

「押し合うこともなく、それぞれが自分の進路を行く。誰かが矢に撃たれて倒れても、誰も隊列を乱さない。町の中へ突き進み、城壁の上を走る。家々に上り、泥棒のように窓から入り込む」

想像してみてください。

兵士たちが至る所にいます。

剣を持つバビロニアの軍隊から誰も逃げられません。

イザヤも同様のことを予告していました。

将来、バビロニアの軍隊が攻撃してくることや、その結末について予告していたのです。

こう述べています。

「彼らは捕らわれた。遠くへ逃げた人も皆、見つかって捕らわれた」

預言者エレミヤも、エレミヤ 16:16で同様のことを予告していました。

その聖句を読んでから、ヨエル書を見てみましょう。

エレミヤ 16:16。

「エホバはこう宣言する、『私は多くの漁師を呼び集め、彼らは人々を捕らえる。その後、私は多くの狩人を呼び集め、彼らは人々を狩り出す。全ての山や丘で、また大岩の裂け目から』」

これまで私たちは、狩人が狩り出し漁師が捕らえるのは、心の正しい人たちだと考えていました。

心の正しい人たちを探していると考えていたのです。

でも、文脈をよく見ると、ここで「狩り出[される]」のは良い人たちではなく、悪い人たちであることが分かります。

17節をご覧ください。

「私は人々の行いを全て見ている。彼らは私から隠れることはできない。彼らの過ちが私の目を逃れることもない」

また 18節にはこうあります。

エホバは「彼らの過ち……に対して、十分に返報する」

ですから、彼らは心の正しい人たちではありません。

山や丘に隠れようとしても狩り出されます。

海の中に逃げようとしても捕らえられます。

バビロニアの兵士たちから逃げることはできません。

さて、次にヨエルは良い知らせを伝えます。

ぜひ聞きたいですね。

復興についての知らせです。

ヨエルは、神からの知識が人々に豊かに与えられる時が来ると述べています。

ヨエル書に戻って、今度はヨエル 2:28, 29の全体を読んでみましょう。

ヨエル 2:28, 29。

「その後[つまりバビロニア軍の攻撃の後]、私は聖なる力をあらゆる人に注ぐ。あなたたちの息子や娘は預言し、老人は夢を見、若者は幻を見る。その時、私は聖なる力を、私の男奴隷と女奴隷にも注ぐ」

この預言はいつ実現しましたか?

「その後」つまり、バビロニアの攻撃のずっと後です。

ペテロによると、エホバが聖なる力を注いだ西暦33年のペンテコステの時に、最初に実現しました。

その日のうちに、3000人の王国伝道者が加わりました。

エホバは彼らの熱心な活動を祝福しましたか?

確かに祝福しました。

1世紀の終わりまでには、非常に大勢の人が神の言葉に従順になりました。

どれほど大勢でしたか?

分かりません。

聖書には書かれていません。

でも、14万4000人よりはるかに少なかったことは確かです。

天に行く希望を持つ人たちを集める活動は進行中で、1世紀の終わりには、まだ完了していなかったからです。

それでも、良い知らせを伝え始めた3000人の熱心な活動は、エホバ神に祝福され、非常に大勢の人が神の言葉に従順になりました。

今日でも同じようなことが起きています。

1919年以降です。

記録によると、1919年には、伝道者が6000人足らずでした。

エホバはその6000人の伝道者の努力を祝福しましたか?

2000年までの報告を見ると、エホバが努力を豊かに祝福してきたことが分かります。

1983年以降、毎年14万4000人以上がバプテスマを受けているのです。

毎年です。

今日私たちは、1世紀の兄弟たちに与えられていたような、聖なる力による奇跡的な能力を持っていませんが、エホバはこの終わりの時代に聖なる力を豊かに注いでいます。

本当に素晴らしいことです。

こうした点から分かるとおり、これまでの理解は不十分でした。

1919年に聖なる力が注がれた後、エホバの民を表すバッタは任務を開始した、と理解していました。

でも聖書はそう述べていません。

聖書によると、バッタが任務を完了した後、聖なる力が注がれたのです。

今日、非常に多くの人がバプテスマを受けています。

そして今後、その数はもっと増えるでしょう。

新しい指示に従って伝道しているからです。

人々と会話し、聖書レッスンを始めることにいっそう努力を傾けるように、という指示です。

きっとバプテスマの数は飛躍的に増加するでしょう。

しかし、心に留めておきたい点があります。

できるだけ人々と会話しましょう。

できるだけ聖句を読みましょう。

できるだけ聖書レッスンを勧めましょう。

でも、忘れないでください。

出版物の提供も大切です。

「今月は出版物を全く紹介しませんでした」と言っても、自慢にはなりません。

出版物は何のためにあるのでしょうか?

例えば、誰かと良い会話ができても、その後3週間その人に会えないかもしれません。

出版物を渡していれば、会えない間もその人は自分で読むことができます。

バッタの預言に関する今回の説明は明快なので、「なぜもっと前から正しく理解できなかったんだろう」と思うかもしれません。

それは、エホバが意味を明らかにする時がまだ来ていなかったからです。

その時が来て初めて、私たちは預言を十分に理解できるようになります。

ですから私たちは、預言を正しく理解できるよう、いつもエホバの導きを求めます。

何が分かりましたか?

確かに、ある国々では、エホバの証人がバッタのように至る所にいます。

反対が城壁のように立ちはだかっても、私たちはあらゆる国で伝道を続けます。

でもそれは、ヨエル 2章やエレミヤ 16章の預言の実現ではありません。

では、命を救うメッセージを伝えるという、神から与えられた仕事を熱心に果たし続けましょう。

神は私たちを遠ざけたりしません。

仕事が完了するまで、支えてくださるのです。

動画リンク

JW.ORG で見る(別ウィンドウ)