あなたは酔いがすっかりさめていますか?
きっと皆さんは、「何でそんなことを聞くんだろう?」と思っていることでしょう。
もちろん酔ってはいないはずです。
ずっと大会ホールにいたので、お酒は飲めませんでした。
ですから、答えは分かり切っています。
でも、聖書を調べると、「酔いがさめている」という言葉には別の意味があることが分かります。
どんな意味でしょうか?
ご一緒に考えましょう。
クリスチャン・ギリシャ語聖書の基になっているギリシャ語本文を見ると、文字通りには「酔いがさめている」という意味の言葉が何度か出てくることが分かります。
でも、「クリスチャン・ギリシャ語聖書 新世界訳」では、「酔いがさめている」とは訳されていません。
1つの例を見てみましょう。
よろしければ、ペテロ第一 1:13をお開きください。
スマホやタブレットがあれば、王国行間逐語訳で確認することもできます。
ペテロ第一 1:13の前半にはこうあります。
「それで、活動に備えて思考を整え、常に頭がさえた状態を保ってください」
ここで使われているギリシャ語は、「酔いがすっかりさめている」と訳すことができます。
でも新世界訳では、「常に頭がさえた状態を保ってください」と訳されています。
ここで質問が生じます。
新世界訳聖書翻訳委員会が、この部分を「酔いがさめている」とか「酔いがすっかりさめている」と訳さなかったのはなぜでしょうか?
皆さんがこの話の主題を聞いた時にどう感じたかを思い出してください。
「あなたは酔いがすっかりさめていますか」と聞いて、どんなことが頭に浮かびましたか?
お酒のことでしょう。
でも、この言葉が「クリスチャン・ギリシャ語聖書」に出てくる場合、そのほとんどはお酒を避けることや、お酒に酔うことについて述べているわけではありません。
むしろ、もっと広い比喩的な意味で使われています。
ですから、「酔いがさめた」状態を保つようにというアドバイスに従うには、聖書がどんな意味でそう言っているかを知る必要があります。
どんな意味なのでしょうか?
では、「新世界訳」がこの表現をどんな4つの方法で訳しているか、簡単に見てみましょう。
その4つの訳し方を見ると、「酔いがさめている」という表現が、実際にはどんな意味なのかを理解することができます。
では始めましょう。
テモテ第一 3章をお開きください。
すぐに思い出しますが、テモテ第一 3章には監督の資格について述べられています。
その内容は姉妹たちにも当てはまります。
読みませんが、2節と11節を見ると、ギリシャ語では「酔いがさめている」という言葉が使われていることが分かります。
王国行間逐語訳に記されています。
でも、新世界訳では、「酔いがさめている」とではなく、「節度をわきまえ」と訳されています。
なぜこのように訳されているのでしょうか?
この言葉にはお酒に酔うことを避けるという意味もありますが、行動や話し方やエンターテインメントの選択などで良い判断を働かせるという広い意味もあるからです。
極端に走ったり、とっぴな考え方をしたり、バランスの欠けた見方をしたりしない、ということです。
こうしたこと全てが「節度をわきまえ」という表現に含まれています。
極端に走らないというのがどういう意味なのかについて、別の聖句から調べてみましょう。
コリント第一をお開きください。
コリント第一 7:31です。
ギリシャ語の「酔いがさめている」という言葉は使われていませんが、節度をわきまえるというのがどういうことなのかをさらに理解することができます。
31節にはこうあります。
「世を利用している人は、世を十分には利用していない人のようになってください」
どういう意味でしょうか?
要点を理解するために、この絵をご覧ください。
おなかをすかせた人が、果実を取ろうとしています。
極端に走らないバランスの取れた人なら、おなかがいっぱいになるだけの果実を取れば満足するでしょう。
あるいは、家に持ち帰るために何個か余分に取るかもしれません。
でも、「十分に……利用」するタイプの人は、果実を集められるだけ集め、食べ切れないほど取ります。
しかもその後で、上の方に1つ残っているのを見つけると、危険を冒してでもそれを取ろうとします。
では、「世を十分には利用」しないようにというパウロのアドバイスに、どのように従えるでしょうか?
世から全てのものを得ようとしないことです。
世のどんな果実を欲しいと思うことがあるでしょうか?
いろいろな果実があります。
教育、エンターテインメント、旅行、休暇、仕事などです。
私たちはこうした点で節度をわきまえているでしょうか?
それとも、全ての果実を取ろうとして、世を十分に利用しているでしょうか?
では、このギリシャ語が使われている2番目の例を見てみましょう。
ペテロ第一 4:7です。
こうあります。
「全てのものの終わりが近づいています。ですから、健全な考え方をしましょう。また、祈ることを常に意識していましょう」
脚注には、「または、『祈りのために目を覚まして』」とあります。
王国行間逐語訳によると、「酔いがさめた」状態を保つという意味があります。
それで、新世界訳ではギリシャ語のこの言葉が「目を覚まして」と訳されています。
何のためにですか?
祈りのためにです。
ペテロは聖なる力の導きを受けてこうしたことを述べました。
ゲッセマネでイエスに、ずっと「祈っていなさい」と言われた時に、「祈りのために目を覚まして」いられなかったことを覚えていたことでしょう。
比喩的な意味で酔いがさめていなかった結果、どうなったかも覚えていました。
私たちはどうでしょうか?
祈りのために目を覚ましていますか?
一日中、機会がある時にはいつでも、エホバに祈っていますか?
それとも、朝起きた時や食事の前や寝る前にだけ祈っていますか?
「祈りのために目を覚まして」いましょう。
いつもエホバのことを考えているなら、私たちは比喩的な意味で酔いがさめた状態にあるといえます。
では、3つ目の例です。
コリント第一 15章です。
33節には、私たちの誰もがよく知っている通り、悪い交友について書かれています。
でも、34節に注目しましょう。
何と述べられているでしょうか?
こうあります。
「正しいことを行って、本心に立ち返ってください」
ここも、ギリシャ語では「酔いをさましなさい」という意味です。
何について述べているのでしょうか?
英語のスタディー版の注釈によるとこうなっています。
「本心に立ち返ってください:パウロはここで、文字通りには『酔いをさます』という意味のギリシャ語の表現を使っている。コリントのクリスチャンの中には、復活などないといった背教者の教えに耳を傾ける人たちがいた。彼らは比喩的な意味で眠っており、混乱して訳が分からなくなっていた。パウロは彼らに目を覚ますようにと言い、復活についての教えをはっきり理解して明晰な思考力を取り戻すよう勧めた。比喩的な眠りによってエホバとの関係が損なわれたり、失われたりすることのないよう助けるためだった」
「本心に立ち返ってください」と訳された理由がお分かりですか?
パウロはワインやビールを飲むことについてではなく、間違った考えを吹き込む人たちとの悪い交友を避けることについて述べていました。
私たちは間違った考えの影響を受けることがあるかもしれません。
会衆の中にさえ、「終わりは本当に近いのか」とか、「世が提供するものは本当に悪いのか」と言う人がいるかもしれません。
あるいは、組織内の責任を持つ兄弟たちに関する情報をインターネットで目にした時、どうしますか?
何でもすぐに信じてしまうでしょうか?
もっと悪いことに、兄弟姉妹に関する興味本位の話をインターネットで探すでしょうか?
サタンは「うその根源」であることを忘れないでください。
うそをつくのがうまく、非常に多くのうそを広めています。
でも、頭がさえた状態を保っていれば、偽の情報にだまされることはないでしょう。
では、最後に4番目の例を考えましょう。
テサロニケ第一をお開きください。
テサロニケ第一 5:6です。
ギリシャ語本文では、ここでも「酔いがさめている」という意味の言葉が使われています。
6節にはこうあります。
「ですから私たちは、ほかの人のように眠っていてはなりません。目を覚ましていて、頭がさえた状態を保ちましょう」
文脈を見ると、「エホバの日が……泥棒のように来る」ことが述べられています。
「平和だ、安全だ!」という宣言についても述べられています。
ですから、これは今の時代について述べています。
目覚めているだけでなく、警戒していなければなりません。
この絵もご覧ください。
この守衛は目を覚ましています。
でも、テレビでスポーツ観戦をしています。
大好きなサッカーの試合に夢中になっているようです。
危険な状況が生じていることに気付いていません。
私たちは目を覚ましているだけではなく、周囲で何が起きているか、どんな危険があるかに警戒していなければなりません。
例えば、世の中の政治的な問題に関わらないようにしなければなりません。
世の人々のようにならないためです。
唯一の解決策である神の王国に注意を向けなければなりません。
酔いがさめているとはそういうことです。
これまで、「酔いがさめている」という意味のギリシャ語がどのように訳されているか、4つの例を考えました。
このことが大切なのはなぜですか?
兄弟姉妹、これまでのプログラムにあったように、私たちはこれから大変な時期を迎えようとしています。
さまざまな問題に対処するには、酔いがすっかりさめていなければなりません。
今年は特別な年です。
「忠実で思慮深い奴隷」が任命されてから、100年がたちました。
この100年を振り返ると、奴隷はいつも目覚め、警戒してきました。
そして、私たちにもそうするよう勧めてきました。
でも、ある人たちはこう言うかもしれません。
「100年を振り返ると、彼らはある年に終わりが来るのではないかと過度に期待したことがあった。でも実際はそうならなかった」
例えで考えましょう。
真夜中に番犬がほえ、何事かと見にいくと、何も起きていません。
あなたは番犬を殺してしまいますか?
番犬は忠実に役目を果たしていたのです。
同様に、忠実な奴隷が熱意のあまり述べたことが実現せず、がっかりすることがあるかもしれません。
でも、「忠実で思慮深い奴隷」の役目は信仰を強める食物を与え、私たちがいつも目覚め、警戒するよう助けることです。
こうしたことを考えると、イエスが今の悪い体制を滅ぼす日が来る時、皆さんはどこにいたいと思いますか?
ビーチでカクテルを飲んでいたいですか?
先ほど見た絵のように、木によじ登って最後の実を取ろうとしますか?
あるいは、建設であれ、伝道であれ、エホバへの奉仕を一生懸命に行っていたいですか?
答えは明らかです。
でも、そうするには、酔いがさめている必要があります。
最後にもう1つの点です。
「洞察」の本の「酒に酔っていない、正気」という部分には、とても興味深いことが述べられています。
ペテロとパウロがこのギリシャ語を使っています。
この説明はとても興味深いと思います。
こうあります。
「テモテは自ら冷静さを保ちつつ、パウロがもはや長くは活動でき[ない]ことを悟るべきでした」
また、ペテロについてはこう述べられています。
「使徒ペテロも同様に、自分と仲間の使徒たちがもはや長くはとどまら[ない]ことを知っていました」
こうもあります。
「世からの迫害が増している時代の重大さをわきまえて、忍耐に必要な力を得るために、健全な思いを持ち、油断なく見張り、警戒を怠らず、真剣な祈りをおろそかにすべきではありませんでした」
忠実な奴隷は100年にわたって、信仰を強める食物を与えてきました。
でも、忠実な奴隷はいつまでも地上にいるわけではありません。
天に行くクリスチャンのうち、残っている人たちが報いを受ける時は近づいています。
もちろん、エホバは引き続き世話してくださいます。
必要なものをいつも与えてくださいます。
ただ覚えておくべきことがあります。
忠実な奴隷が伝えたいことがあります。
パウロやペテロと同じように、私たちも皆さんに次のことをお勧めします。
それは、皆さん1人1人が、節度をわきまえ、祈りのために目を覚ましていて、頭がさえた状態を保ち、偽の情報に気を散らされないようにし、警戒を怠らないことです。
最後にもう一度お尋ねします。
「あなたは酔いがさめていますか」?
「すっかりさめていますか」?