エホバは間もなく、王国によって最終的な裁きを下します。
イエスは弟子たちに、ご自分の目に見えない臨在と、この「体制の終結」の預言的なしるしにどんなものがあるかを教えました。
イエスの預言は今の時代に当てはまるので、私たちはその詳細な点に深い関心を持っています。
その預言に含まれる警告に従う人には素晴らしい将来があります。
イエスの預言はマタイ 24, 25章、マルコ 13章、ルカ 21章に書かれています。
イエスは、今の時代に起きる多くの事柄を予告した後、3つの例え話を使って、弟子たちに警告を与えました。
1つ目は、10人の乙女の例え話、2つ目は、タラントの例え話、3つ目は、羊とヤギの例え話です。
最終的にどのように裁かれるかが一人一人の行動に懸かっていることを学べます。
最初の2つの例え話は天で生きる希望を持つ人たちに、3つ目の例え話は地上で生きる希望を持つ人たちに当てはまります。
どちらの見込みを持つ人たちも、イエスの例え話に含まれている警告から学ぶことができます。
まず3つ目の例え話から考えましょう。
その例え話でイエスは、羊のような人たちとヤギのような人たちが大患難の間に受ける最終的な裁きについて述べています。
エホバから任命された裁き主また王であるイエスは、全く正しい裁きを行います。
そして今も、全ての人の言動や態度を注意深く見ています。
天に行くよう選ばれたイエスの兄弟たちにどう接するかも観察しています。
大患難が始まる時までに、イエスは人々の行動や態度に基づいて、羊のような人とヤギのような人を見分けます。
それ以降、ヤギのような人たちが生き方を変えることはないでしょう。
しかし、地上で永遠に生きる見込みを持つ羊のような人たちは、「命の書」から名前が消されないようにするため、忠実であり続けなければなりません。
そしてハルマゲドンの直前に、イエスは地上で生きている全ての人に最終的な裁きを下します。
正しいと判断された人たちは、地上で永遠に生きることができるでしょう。
忠誠を貫く人に与えられる素晴らしい報いです。
もちろん、この例え話は地上で生きる見込みを持つ人に当てはまりますが、天で生きる見込みを持つ人も、この例え話の警告に注意を払う必要があります。
それらの人たちも、イエスから言動や態度を観察されているからです。
正しいことを行い、忠実でなければなりません。
では、次のことを考えましょう。
イエスは今、天の希望を持つクリスチャンの、特にどんなことを観察していますか?
イエスはどんな警告を与えているでしょうか?
マタイ 25章の最初の2つの例え話を調べると、それらの質問の答えが分かります。
例え話について調べる前に、天に行くクリスチャンがどのように選ばれるかを考えましょう。
まず、古代の例に注目したいと思います。
古代イスラエルで祭司職が制定された時、幕屋で誰が大祭司や従属の祭司として奉仕するかを決めたのはエホバです。
出エジプト記 28:1によると、「アロンとその子たち」が選ばれました。
誰もエホバの決定に異議を唱えることはできませんでした。
また選ばれた人は、任務を全うする必要がありました。
エホバはイスラエルで行ったように、天で誰が祭司として奉仕するかも決めます。
まず、大祭司として奉仕するイエスを選びました。
イエスは完全でしたが、自分でその役割を選んだわけではありません。
ヘブライ 5:5にある通り、「キリスト[は]自ら大祭司となって栄光を得たのでは[ありません]」。
天で祭司として奉仕する人たちも、自分でこの割り当てを選んだわけではありません。
エホバによって選ばれ、聖なる力を受けました。
エホバはご自分が選んだ人一人一人をよく知っています。
天に行くよう選ばれた人はそのことをどう感じるでしょうか?
天に行くよう選ばれた人には、エホバから選ばれたことがはっきり分かります。
また、エホバから選ばれたことを感謝し喜んで受け入れます。
誇ったり、高慢になったりすることなく、イエスの手本に倣って謙遜であるよう努力します。
そうする上で、イエスの例え話に含まれている教訓や警告に注意を払うことが役立ちます。
注目できるのは、イエスが例え話をする直前に、終わりの時代の間、適切な時に食物を与える「忠実で思慮深い奴隷」について述べていることです。
この奴隷とは、天に行くよう選ばれた兄弟たちの小さなグループ、つまり現代の統治体です。
イエスは、この奴隷が忠実に奉仕するなら報いを受ける、と言いましたが、警告も与えました。
続く部分には、イエスが帰ってこないと考えて仲間の奴隷たちを厳しく扱う奴隷について述べられています。
その奴隷はどうなりますか?
邪悪な者と見なされ、マタイ 24:51にある通り「最も厳しく……罰[せ]」られます。
イエスはここで、邪悪な奴隷が現れると預言していたわけではありません。
これは警告です。
預言ではありません。
どんな警告ですか?
見張っていなければならない、という警告です。
でも、見張っていなければならないのは「忠実で思慮深い奴隷」だけではありません。
イエスはこの例えを使って、天に行くよう選ばれた人全てが思慮深く、忠実で、見張っていなければならない、と警告したのです。
続く例え話に注目しましょう。
イエスは、花婿を迎えに出た10人の乙女の例え話をします。
乙女たちは、花婿と一緒に結婚の披露宴に行きたいと思っています。
イエスは乙女のうち5人は思慮深く、5人は愚かだと言っています。
「思慮深い」に当たるギリシャ語は、理解力、先見の明、識別力、役立つ知恵という考えを伝えています。
思慮深い乙女たちは賢明でした。
花婿が真夜中に着いた時、迎える用意ができていたのです。
道を照らすランプを持っていました。
マタイ 25:4によると、「思慮深い乙女たちはランプと共に、油を瓶に入れて持っていきました」。
ですから ランプをともし続けることができたのです。
用意ができていたので、披露宴のために花婿と一緒に中に入ることができました、
これは、天に行くよう選ばれたクリスチャンが、報いを受ける時のことを述べています。
天の王国で花婿のイエスと一緒になるのにふさわしい者と見てもらえるのです。
では、愚かな乙女たちはどうですか?
思慮深い乙女たちとは異なり、花婿が着いた時に用意ができていません。
ランプは消えていました。
ですから、花婿と一緒に結婚の披露宴に行くことができませんでした。
その後、中に入ろうとしますが、花婿からこう言われます。
「あなたたちのことは知りません」。
イエスはこの例えで、どんな警告を与えていましたか?
「ずっと見張って」いて、用意のできている人たちだけが天での報いを得られるということです。
でもイエスは、大患難の時に用意ができていない愚かな乙女たちが大勢いる、と言っていたわけではありません。
これも預言ではなく、警告です。
天に行く希望を持つ人の半数が愚かな行動をする、という意味ではありません。
イエスは天に行くよう選ばれた人がずっと見張っていないならどうなるか、ということを言っていたのです。
これは身の引き締まる警告です。
天に行く希望を持っているか、地上で生きる希望を持っているかに関わりなく、全てのクリスチャンはこの警告に注意しなければなりません。
私たちは「ずっと見張って」いて、いつでも神が望むことを行う用意をしていなければならないのです。
イエスはこの例え話で、思慮深くあることの重要性を強調した後、忠実であることの重要性を強調する例え話をしました。
タラント、つまりお金の例え話です。
この例え話には、主人に忠実な2人の奴隷と、そうではない1人の奴隷が出てきます。
2人の奴隷は忠実であることをどのように示しましたか?
主人が外国に旅行に出る前に、自分に託されたお金を増やすため、一生懸命に努力しました。
主人が帰ってきた時、忠実な奴隷たちは預かっていたより多くのお金を差し出したので、褒められました。
3人目の奴隷、怠惰な奴隷はどうでしたか?
預かったお金をどうしましたか?
この奴隷は、主人から預かったお金を地中に埋めました。
増やそうとしなかったのです。
ですから主人が戻ってきた時、預かっていたお金以外に差し出せるものはありませんでした。
主人を「厳しい方」と呼んで、非難することさえしました。
その奴隷は主人に喜んでもらうことができませんでした。
それどころか、持っていたものを取り上げられ、主人の家から追い出されてしまったのです。
それぞれの奴隷に対して主人がしたことにはどういう意味がありますか?
奴隷たちは誰を表しているのでしょうか?
2人の忠実な奴隷は、主人の家で大切な働きをする天に行くよう選ばれたクリスチャンです。
イエスはその奴隷たちに、「主人である私と共に喜びなさい」と言います。
その喜びとは、天での報いのことです。
一方、怠惰な奴隷は天に行くよう選ばれたクリスチャンの警告となっています。
どういうことですか?
天に行くよう選ばれたクリスチャンは、よく見張っていないなら、自分はもう十分にやっていると考えてしまうかもしれません。
王国のためにもっと奉仕しようとしなくなります。
与えられた責任を軽視し、ペテロ第二 1:10の言葉に従わなくなるかもしれません。
そこには 「招かれ選ばれた者であり続けられるように……努力してください」とあります。
天に行くよう選ばれたクリスチャンが怠惰な奴隷のようになるなら、天の王国に入って主人と共に喜ぶことはできません。
この話でも、イエスは預言していたのではなく、警告していました。
ですから、天に行くよう選ばれた人は全て、思慮深く、忠実でなければなりません。
天に行く希望を持つ人も、地上で生きる希望を持つ人も、クリスチャンは皆、エホバに忠実を保つ決意をしています。
大切なのはエホバとの絆です。
エホバが最近ある人たちを天に行くよう選んだことを疑問に思う必要はありません。
イエスがブドウ園に関する例え話の中で、「午後5時」から働き始めた人について述べたことを思い出してください。
マタイ 20章に書かれています。
ブドウ園で早い時間から働いていた人も、もっと遅い時間から働くように言われた人も、主人から同じ賃金を受け取りました。
エホバとイエスは、天に行く人が、終わりが来る前にあと何人選ばれれば14万4000人に達するかを知っています。
いつ選ばれたかに関わりなく、選ばれた人たちは、忠実を保つなら天での報いを与えられます。
その点を念頭に置いて、マタイ 24:40, 41について考えましょう。
天に行く人たちに関するイエスの例え話とどう関係しているかに注目します。
マタイ 24:40からです。
「その時、2人の男性が畑にいて、一方は連れていかれ、他方は捨てられます。2人の女性がひき臼を回していて、一方は連れていかれ、他方は捨てられます」
例え話との類似点に気付きましたか?
イエスは、畑で働く2人の男性と、ひき臼を回している2人の女性について述べています。
2人の男性も2人の女性もそれぞれしていることは同じです。
でもイエスは、「一方は連れていかれ、他方は捨てられます」と言いました。
その後、弟子たちにこう言いました。
「それで、ずっと見張っていなさい。主がどの日に来るかを知らないからです」
イエスは、10人の乙女の例え話の後にも、同じようなことを言っていました。
どちらの場合も警告を与えました。
乙女たちの例え話と同様、連れていかれる人たちの話も、天に行くよう選ばれたクリスチャンに当てはまるのでしょうか?
そのようです。
イエスはこの話の中でも、警告を与えていました。
「体制の終結」に関する重要な預言の中で、イエスは愛の気持ちから、王国の良い知らせに加え、弟子たちを含め全ての人に対する警告のメッセージを強調しています。
私たちが伝えているメッセージも同じです。
救いの希望を伝えるとともに、人々に警告を与えています。
私たちは、イエスのこの2つのメッセージをできる限り伝え、時間があるうちに人々が行動するよう助ける必要があります。
エホバもイエスも、私たちが思慮深く、忠実であり、見張っていることを望んでいるのです。
まとめてみましょう。
愚かな乙女たちは披露宴にやって来ましたが、戸が閉められていました。
そして花婿から「あなたたちのことは知りません」と言われました。
タラントを委ねられた1人の奴隷は、主人と共に喜ぶことができず、外の闇に放り出されました。
イエスは、全ての人が連れていかれて天での報いを受けるわけではないことも教えました。
天に行く希望を持つ人に対する強い警告です。
とはいえ、14万4000人という数は必ず満たされることになります。
エホバは今、地上で永遠に生きることを願う正しい人を含め、ご自分の民全てをよく見ています。
でも私たちは、これから行われる最終的な裁きを恐れる必要はありません。
愛情深い天のお父さんエホバは、「普通を超えた力」を与えてくれます。
ルカ 21:36にある通り、私たちが「人の子の前に立つことができるよう」になるためです。
では、天に行く希望を持っていても、地上で生きる希望を持っていても、イエスの例え話にある警告に注意を払いましょう。
そうすれば、「命の書」から名前が消されることはないでしょう。