143期ギレアデ卒業式「ああ、エホバよ、私は何者なのでしょう?」 - パトリック・ラフランカ

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生徒の皆さんは、「ギレアデに招かれるなんて、自分は何者なんだろう」と考えたことがありますか?

それはいい質問です。

この素晴らしい機会を得る人は、神の民の間でも比較的少数だからです。

それにしても、なぜあなただったのでしょう?

普通のエホバの奉仕者たちより賢いから? 美しいからでしょうか?

そうではなく、霊的な特質のためです。

中でも重要なのは、謙遜さです。

皆さんは謙遜さを示してこられました。

しかし、いつでも謙遜な人でいるのは、霊的な面での試みとなります。

生徒の皆さんだけではありません。

わたしたちすべては、自分を高めてしまう傾向を受け継いでいます。

アダムとエバのことを考えてください。

2人は尊大にも、神のようになろうとしました。

自分たちが塵で造られていることを忘れてしまったようです。

ですからわたしたちも、誇り高くなる傾向と闘わなければなりません。

謙遜さは培うのが難しい特質で、急になくしてしまうこともあるのです。

ですが、エホバは助けを差し伸べてくださいます。

聖書には謙遜さの手本が多く載せられていますが、その一人はダビデです。

これからダビデの生涯の様々な場面を追ってみて、謙遜さを保っているか注目しましょう。

まず、若い頃は謙遜でしたか?

エホバが預言者サムエルをエッサイの家に向かわせ、息子の一人にイスラエルの王として油をそそぐよう命じたときのことを思い起こしてください。

家の中にいた7人の息子たちは選ばれませんでした。

最後にサムエルは「これで男の子は全部ですか」と尋ねました。

「外でダビデが羊を放牧しています」ということだったのでダビデが呼ばれ、その若者にサムエルはイスラエルの王として油をそそいだのです。

こんな素晴らしい機会を得て、彼はびっくりしたに違いありません。

では、高慢になったでしょうか?

兄たちにどう接しますか?

誇り高くなりましたか?

たとえばこんなふうに言ったでしょうか?

「エリアブ、あまり偉そうな態度を取らないほうがいいよ。僕のことをもっと尊敬するべきだ。それにアビナダブ、そろそろ羊の世話をしてくれたまえ。僕にはもっと大事な割り当てがあるんだから。王様になるための勉強をしないといけないんだ。うーん、宮廷の入口はどこだったかな?」

もちろん、ダビデがこう考えたことを示すものはありません。

エホバが王に任命される時を喜んで待ちました。

何を学べますか?

皆さんも機会が与えられる時を待たなければならないかもしれません。

その時までは割り当てられた場所で、兄弟たちの助けになりましょう。

さて、その後もダビデは羊飼いをしていましたが、しばらくして何がありましたか?

サウル王の従者が、ダビデが王の宮廷で仕えることを推薦したのです。

サムエル第一 16:18のその言葉をお聞きください。

「従者の一人が答えて言った、『ご覧ください、わたしはベツレヘム人エッサイの子が弾くのに巧みなのを見たことがありますが、彼は勇敢な力のある人で、戦人で、物分かりのよい話し手で、容姿の整った人です。エホバは彼と共におられます』」

素晴らしい推薦の言葉ですね!。

こうして謙遜なダビデは宮廷楽士となり、羊の囲いを出て王の宮廷に行きました。

特別な機会はこれだけではありません。

21節を見ると、サウルの武具持ちになったことが分かります。

その後、戦いで多くの手柄を立てました。

有名になり、女性たちは彼の勝利を歌にしました。

名声があり、若くて男前、会話がおもしろくて音楽も戦術も一流、しかも神の恵みも受けています。

ダビデにはすべてがありました。

この中の一つでもあれば高慢で誇り高くなりかねませんが、彼はそうなりませんでした。

サウル王が自分の娘との結婚をダビデに提案した時の、彼の反応に注目してください。

サムエル第一 18:18です。

「そこでダビデはサウルに言った、『私は何者なのでしょう。私の親族、私の父の一族も、イスラエルでは何者なのでしょう。私が王の婿になるなどとは』」

王の親族になればダビデは誇りを抱いてもおかしくなかったでしょう。

ですが、この「私は何者なのでしょう」という言葉には心を打たれます。

そのような資格など自分にはないと考えたのです。

わたしたちへの教訓があるでしょうか?

神の組織の中で、著名な兄弟たちと共に働いたり知り合いになったりすることがあるかもしれません。

その兄弟たちの名前を会話の中で持ち出して、自分の存在感を示そうとしますか?

では次に、ダビデの生涯における別の時期について考えましょう。

彼はイスラエルの王となり、首都エルサレムの王宮に住んでいます。

そして自分は王宮にいるのに、イスラエルの真の王であるエホバの契約の箱が天幕の中にあるので、申し訳ないと思っています。

そこで預言者ナタンに、「エホバにふさわしい家として神殿を建てたい」と言いますが、エホバは「それを建てるのはあなたではなく、あなたの息子だ」とおっしゃいます。

とはいえ、エホバはダビデがびっくりするようなことをなさいます。

「あなたがわたしの家を建てるのではなく、わたしがあなたの家を建てよう」とお告げになり、王権がダビデの家族のもとに永遠にとどまるという契約を結ばれたのです。

では、ダビデはどうしたでしょうか?

歴代第一 17:16-18をお開きください。

「その後、ダビデ王は入って、エホバの前に座って言った、『エホバ神よ、私は何者なのでしょう。私の家は何でしょう。あなたがここまで私を導かれるとは。神よ、これはあなたの目にはまるで取るに足りないものですのに、それでもあなたはこの僕の家について、遠い将来の時代にわたることまで話されるのです。エホバ神よ、あなたは優位にある人の機会に照らして私を見てくださいました。この僕に誉れを与えてくださることについて、ダビデはこの上あなたに何を申し上げることができましょう。あなたがこの僕をよくご存じなのです』」

エホバからの驚嘆すべき約束がダビデの心を動かします。

彼はエホバの前にへりくだり、自分は無価値で微々たる存在だと感じているのです。

そののち、ダビデは神殿の建設に莫大な寄進物を差し出しました。

それは現在の価格にすると1320億円にもなります。

ですが歴代第一 29:14にあるとおり、彼はエホバにこう祈りました。

「それにしても、私は何者なのでしょう……すべてのものはあなたから出ていますので、あなたのみ手から受けて、あなたに献じたのです」

何と謙遜な態度でしょう。

そして、このとおりではありませんか?

わたしたちがエホバに差し出すものはすべて、エホバからいただいたものなのです。

エホバ神がダビデを愛しておられたのも不思議ではありません。

まさに、神の心にかなう人だったのです。

どうすれば、このような謙遜な心を培い、保つことができるでしょうか?

「わたしは謙遜になることを決意しました」と言うだけでは不十分です。

ダビデと同じようにしてみましょう。

時間を取って腰を下ろし、これまでの人生でどんな祝福や、過分のご親切をエホバから受けたか、じっくり考えるのです。

エホバの畏怖すべきみ業についてよく考えましょう。

そうすればエホバにこう述べたくなるでしょう。

「わたしは何者なのでしょう。多くの欠点があるのにあなたと共に働く誉れをいただけるとは。わたしは何者なのでしょう。割り当てを果たすための健康や力をいただけるとは。わたしは何者なのでしょう。わたしよりふさわしい人がいるはずなのに、この特別な奉仕の機会をいただけるとは」

もちろん、神の僕であることに対する良い意味での誇りは持ちますが、優越感を抱かせる誇りは不健全です。

他の人を見下ろしながら、エホバを見上げることはできません。

謙遜さを保つ秘訣は、自分について正しい見方をすることです。

ダビデと同様、自分の前に絶えずエホバを置きたいと思います。

では生徒の皆さん、畏怖の念を抱かせる神にいつも目を向けましょう。

そして皆さんが大いに用いられ、この卒業の日に勝って祝福を受けられますように。

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