143期ギレアデ卒業式「共鳴弦」 - ジェームズ・コーソン

テキスト

あなたに資力があって、みんなに高価な贈り物を渡したとします。

どうなるでしょうか?

もらった相手は喜び、あなた自身はより大きな喜びを味わうことでしょう。

なぜなら、イエスがおっしゃったとおり、与えるほうがもっと幸福だからです。

実を言うと、皆さんは大変特別な、あるものを人々に与えることができます。

それは、人々が真に必要としているものなのにお金は全くかかりません。

それは何でしょうか?

あなたの気遣いです。

ローマ 12:15で、使徒パウロはこう述べました。

「歓ぶ人たちと共に歓び、泣く人たちと共に泣きなさい」

わたしたちは他の人の喜びや悲しみといった感情を理解して、共感できるようになる必要があります。

なぜでしょうか?

それは、わたしたちが「対処しにくい危機の時代」に住んでいるからです。

それで、「泣く人たちと共に泣きなさい」という聖書の言葉は、簡単に言うと「同情を示しなさい」ということです。

どうしてそうする必要があるのでしょうか?

ローマ 12章に戻って、今度は5節でわたしたちが思い起こすべき点に注目しましょう。

パウロはこう書いています。

「わたしたちも、数多くいるにしても、キリストと結ばれた一つの体であり、また、それぞれ互いに所属し合う肢体であるからです」

この聖句はもちろん、新しい契約の当事者を念頭に置いて書かれましたが、実際のところわたしたちは皆、エホバの民として互いに所属し合っています。

ところで興味深いことに、クリスチャン・ギリシャ語聖書中では「互いに」行なうようにとの勧めが50回ほど出てきます。

例えば、互いに愛し合うこと、互いに励まし合うこと、互いのことをよく考えること、互いのために祈ることなどです。

過去の「ものみの塔」にこうありました。

「兄弟姉妹の痛みやつらさを敏感に察するようにします。信仰の仲間が感情的な苦痛を経験している時、時間を取って思いやり深く耳を傾けるなら、相手の気持ちはずいぶん楽になるものです」

同情とは、相手の身になって、その人の痛みを感じ取ることです。

同情は、「感情移入」、「思いやり」あるいは「哀れみを感じる」などと表現されることもあります。

互いを一番必要とするのは、危機的な状況にあるときや悲しみや不安を感じているときでしょう。

どうすれば気遣いを示せるでしょうか?

答えはシンプルです。

思いやり深く聞くことです。

その効果は、特定の楽器にある、音を増幅するための共鳴弦に例えることができます。

これらの楽器には、演奏者が直接叩いたりはじいたりしない弦、つまり共鳴弦があります。

共鳴弦は、演奏中に弾かれた弦に反応して、共鳴します。

その結果、両方の弦から出た音が、見事に調和して一つになります。

大変特別な効果を生み出します。

この効果を生み出す仕組みは、2つの音叉〈おんさ〉を使って示すことができます。

一方を叩くと音が出ます。

2本目は叩いていませんが、1本目の振動に反応して音が出ます。

その結果、振動している音叉は一つだけではなくなります。

2本目の音叉が、1本目の振動に反応して共鳴しています。

本当に、調和して一つの音になります。

愛する人を亡くしたある姉妹はこう言いました。

「わたしの心は痛み、泣いてばかりでした。友人がやってきてただ一緒に泣いてくれたとき、本当にありがたく思いました」

姉妹は、友人と心が一つに調和したのを感じたのです。

でも、注意したいことがあります。

喜びを共にする場合と違って、他の人の心の痛みを思いやり深く聞くためには、たくさんの感情的なエネルギーと時間が必要になります。

音叉の例えから分かるように、1本目の音叉を離した後も、共鳴している音叉のほうは引き続き振動していますね。

仲間に対する本当の気持ちは、わたしたちの態度や振る舞いによって否が応でも明らかになるのです。

ローマの聖句に戻って、今度はローマ 12:10を読んでみましょう。

こうあります。

「兄弟愛のうちに互いに対する優しい愛情を抱きなさい」

耳を傾けることは、愛情を表わす基本的な方法です。

ですが、しばしば問題となるのは、急いで解決しようとするあまり、時間を取ってよく聞いたり、同情したりできなくなってしまうことです。

あるいは、自分の問題で頭がいっぱいで、他の人のことまで考えられなくなる場合もあります。

「自分は大変だ」という思いで、他の人への同情が脇へ押しやられてしまうのです。

さらに注意する点があります。

それは、すぐに何とかしなければ、と感じて、苦しんでいる人の助けにならないことを言ってしまわないように、ということです。

「しっかりしないとだめだよ」とか、最悪なのは「他の人たちも苦しみを経験しましたよ。今度はあなたの番ですね」とか、だれかと比較して、「でも、あなたは少なくとも歩けますね」といった言葉です。

わたしたちは悪意があってこういう言い方をするわけではありませんが、言われた相手はどう感じるでしょうか?

見下げられているように感じるかもしれません。

いわば、「あなたのことは別にどうでもいいんです」とか、「それほど気にかけてはいませんよ」と言っているようなものです。

ヨブは自分の気持ちについて10回も慰め手に説明しました。

10回目の後にとうとう、「ああ、わたしの言うことを聴いてくれる者がいたなら」と言いました。

ヨブの痛みや苦しみはむしろ大きくなってしまいました。

友たちが良い聴き手でなかったからです。

友たちはヨブを気遣うことも、気持ちを理解しようとすることもなかったのです。

ヨブを拒絶してしまいました。

わたしたち自身も、似たようなことをしてしまう可能性はないでしょうか?

そうだとしたら、何と残念なことでしょう。

他の人の悲しみと痛みに共感するには、進んで耳を傾け、進んで時間を取り、自分のことよりも相手のことを気遣う必要があります。

利他的になるようにしましょう。

ローマ 12:10の続きにはこうあります。

「互いを敬う点で率先しなさい」

他の人を敬うために批判的にならないようにし、相手の言うことを真剣に受け止め、相手の言葉や感情に、心から誠実な関心を示しましょう。

次の点を思いに留めておきましょう。

自分と神との関係と、自分と仲間との関係とは、密接なつながりがある、ということです。

もう一度言います。

自分と神との関係と、自分と仲間との関係とは密接なつながりがあります。

エホバは、わたしたちが互いにどう接しているかに、深い関心を払っておられます。

エホバは、何よりも互いへの愛によってご自分の民が知られることを望んでおられます。

同情を示すことは、愛を表わし、仲間の心をいやす助けとなる、あなたからの大変貴重な贈り物なのです。

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