143期ギレアデ卒業式「自分の歩みをいつもエホバに導いていただきなさい」 - ジェフリー・ジャクソン

テキスト

皆さんの前で再び話ができることを、本当にうれしく思います。

わたしがギレアデで最初の講義をしたのがつい数日前のように感じます。

でももう今日は、卒業式という特別な日ですね。

卒業して割り当てられた場所へ向かう前に、皆さんに質問したいと思います。

自分の歩みをエホバに導いていただきたいですか?

わたしたちは皆さんの答えを知っています。

皆さんがこれまで自分の歩みをエホバに導いていただきたいと願っていたからこそ、エホバに献身し、全時間奉仕、特別全時間奉仕を開始し、そしてここ、ギレアデに来られたのです。

わたしたちは、自分の歩みをエホバに導いていただきたいと願っておられる皆さんを愛しており、誇りに思います。

しかし、エホバに何かをしてもらいたいですかという質問は、少しせん越に聞こえるかもしれません。

単なる人間がエホバに何かを要求することなどできるのでしょうか?

この質問をするのは、エホバが強制されない方だからです。

エホバが自動的にわたしたちの歩みを導くことはありません。

実際、エホバに導いていただくには、わたしたちに何かが必要です。

聖書を開いて興味深い詩編の聖句を見てみましょう。

詩編37編は野外奉仕でよく使いますね。

しかし、今回は詩編37:23に注目しましょう。

英語の改訂版では、「エホバは人の道を導く。彼がその道を喜ぶときに」という表現になっています。

もし聖書が手元にない状態でこの聖句を英語で聞くとしたら、意味を誤解するかもしれません。

なぜでしょうか?

「彼がその道を喜ぶとき」と聞くと、人がエホバの道を喜ぶときのことだと考えてしまうでしょう。

しかし、「新世界訳聖書」では、「彼」を大文字で始まる He にして、エホバであることを示していることに注目してください。

それで、代名詞を分かりやすく置き換えるとどうなるでしょうか?

「エホバが人の道を導くのは、エホバがその人の道を喜ぶとき」である、ということです。

興味深い概念ではないでしょうか?

エホバに歩みを導いていただくには、エホバを喜ばせる行ないをする必要があるのです。

エホバがわたしたちの道を喜ぶとき、エホバは歩みを導いてくださいます。

深遠な考えですね。

それで、わたしたちがエホバのご意志に調和して行動するとき、いわば自分の歩みをエホバに導いていただけるようにしているのです。

エホバに「わたしの歩みを導いてください」と祈りさえすればよいのではありません。

この点を理解するのに役立つ、聖書中の2つの悪い例を考えてみましょう。

最初にバラムについて考慮しましょう。

西暦前15世紀、イスラエルが約束の地に入ろうとしていた時のことを思い出してください。

モアブ人は恐れを抱いていました。

バラムは、エホバの崇拝といくらか関係を持っていた人物でした。

突然使者がやってきて、バラムに神の民をのろうよう頼みました。

どうなったか覚えておられますか?

バラムはどうしましたか?

バラムは自動的には回答しませんでしたね?

「一晩待ってください。エホバに尋ねます」と言いました。

エホバは何と言われましたか?

「行ってはいけない」でした。

分かりにくい指示ではないですね?

意味を理解するために、弁護士の助けは必要ありません。

しかしどうなったでしょうか?

プレッシャーをかけられましたね?

さらに大勢の位の高い君たちが、やって来て物質的な報酬を申し出ました。

バラムはどうしたでしょうか?

エホバから聞いた指示は明快で「行ってはいけない」でしたが、何をしましたか?

バラムの心はすでに行く方向に傾いていたのです。

それでエホバの指示が少しでも変わることを願って、「少し待ってください。エホバが何と言われるかを確認させてください」と言います。

エホバは何と言われましたか?

「行きなさい。ただし、わたしが告げること以外は一切話してはいけない」

つまり、「わたしが告げることだけを話しなさい」ということです。。

これは、エホバがバラムの歩みを導いたのでしょうか?

あるいは、バラムが自分の道を進むままにさせたのでしょうか?

このあと、3回の抵抗がありました。

しかし、どうなりましたか?

民数記 22章全体を読むと、非常に明快な指示を読み取れます。

実際、「行ってはいけない」という指示は明らかでした。

民数記 22:32。

「するとエホバのみ使いは彼に言った、『どうしてあなたは自分の雌ろばをこうして三度も打ちたたいたのか。見よ、わたしはあなたに抵抗するために出て来た。あなたの道がわたしの意志に真っ向から逆らってきたからである』」

これで分かりましたね。

エホバがバラムの歩みを導いたのではありません。

エホバはバラムが行くことに反対しておられたのです。

ここから何を学べるでしょうか?

バラムは最初、エホバに導かれることを願いましたが、エホバはバラムに強制されませんでした。

バラムが特定の方向に進むことを決定したときには、エホバは繰り返し「行ってはいけない」というシグナルを送られました。

しかし、バラムは進んで行き、彼は死ぬことになりました。

その結果、大勢の人も死ぬことになりました。

教訓は何ですか?

わたしたちは人生のある局面で、「エホバ、わたしがどうすることをお望みですか? あなたのご意志は何ですか?」と尋ねることがあります。

そのように祈るのは良いことです。

しかし、何をする必要がありますか?

エホバが望んでおられることを行なう必要があります。

エホバはわたしたちが行なうことを喜ばれるとき、わたしたちの歩みを導いてくださいます。

大切な教訓ですね。

注目したい2番目の例は、名前が挙げられていない預言者です。

列王第一 13章に出てくる預言者を思い出せますか?

彼はイスラエルに行き、ヤラベアム王に預言するよう指示されていました。

エホバが与えた指示を思い出してください。

それは「来た道を通って帰ってはならない。飲み食いしてはいけない」というものでした。

それで王から「家に来て食事をしてください」と言われても、預言者は「いいえ、わたしはエホバの命令に従います」と答えました。

しかし、何が起きましたか?

預言者はその時点までとてもよくやっていましたが、年老いた預言者がこう言って彼を欺きました。

「心配しないでください。天使が『食事をしてもよい』と言ったのです」

名前が挙げられていない預言者は何と言いましたか?

「エホバが本当にそうおっしゃっているのかもう一度確認します」ではなく、「食べましょう」と言ったのです。

これも悲惨な結果を招きましたね。

教訓は何でしょうか?

預言者はエホバに歩みを導いていただけるよう良いスタートを切りましたが、与えられた指示に従うのを途中でやめてしまいました。

わたしたちにも教訓となるのではないですか?

同じ失敗をするかもしれません。

わたしたちにも尊敬できる友人がいることでしょう。

その友人がエホバの命令に反するようなアドバイスをするかもしれず、それによって災難を招くかもしれません。

こうした状況で何が助けになるでしょうか?

1950年の「ものみの塔」誌からお読みしたいと思います。

皆さんはまだ生まれていないですね。

ちなみにわたしも生まれていません。

ハード兄弟はお読みになったでしょうね。

いずれにしても、こうありました。

「急いで行動して神から戒めを受ける結果を招くよりも、時間を取って神のご要求を沈思黙考するほうが、はるかにまさっています」

もう一度読みます。

「急いで行動して神から戒めを受ける結果を招くよりも、時間を取って神のご要求を沈思黙考するほうが、はるかにまさっています」

これをもう少し簡単に言うとどうなりますか?

「急がずに、立ち止まり、思い巡らし、祈り、確認しましょう。エホバが本当に望んでおられるのは何かを確認するのです」

これを踏まえて、割り当ての場所に着いたとします。

きっとさまざまな問題に気づくことでしょう。

では、この「急がずに、立ち止まり、思い巡らし、祈り、エホバが何を望んでおられるかを確認する」という原則を、どのように適用できるでしょうか?

3つの状況を考えてみましょう。

わたしたちは、何かのことで興奮しているときでも、エホバに自分の歩みを導いていただきたいと思います。

皆さんは、割り当てられる場所で何かしたいと興奮しておられます。

では、ヤコブの例を考えましょう。

息子のヨセフが死んだと告げられたときに、ヤコブがどう感じたと聖書は述べていたでしょうか?

悲嘆に暮れ、何年もの間、ヨセフは死んだものと思っていました。

想像できますか?

そして、息子たちが突然エジプトから帰って来たときに、ヤコブが感じた喜びを想像してみてください。

牛車が来ました。

ただの牛車ではありません。

上品で豪華な牛車だったでしょう。

ヤコブを迎えに来たのです。

ヨセフは生きていました。

しかも、エジプトで非常に高い地位に就いていたのです。

どう思いますか?

ヤコブは興奮したと思いますか?

もちろんです!。

とても興奮して大喜びしました。

そしてヘブロンを去り、ベエル・シェバまで来ました。

しかし、ヤコブは約束の地を後にして、エジプトに入る前に何をしましたか?

創世記 46章を見てみましょう。

創世記 46:1-4を読みます。

「そこでイスラエル[は]ベエル・シェバに来た。そして彼は自分の父イサクの神に犠牲をささげた」

ヤコブは立ち止まって思い巡らしたのです。

2節。

「そのとき神は夜の幻の中でイスラエルに語りかけて、『ヤコブ、ヤコブよ』と言われた。それに対し彼は、『はい、私はここにおります』と言った。するとさらにこう言われた、『わたしはまことの神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れてはいけない。わたしはそこであなたを大いなる国民とするからである。わたし自らあなたと共にエジプトに下り、またわたし自ら必ずあなたを連れ上りもする。そして、ヨセフが手をあなたの目に置くであろう』」

どうしましたか?

ヤコブは立ち止まって思い巡らし、エホバが望んでおられることを確かめました。

そしてエホバは進んで行くようにと言われました。

わたしたちはヤコブが受けた祝福とその後の結末を知っています。

教訓は何ですか?

わたしたちは何かのことで興奮することがあります。

何かを行なうべきだと考えます。

どうする必要がありますか?

立ち止まって、思い巡らし、祈って、エホバが本当に願っておられることは何なのかを確かめましょう。

2番目の例を考えましょう。

イスラエル国民が約束の地に入るときのことを想像してください。

征服を目前に控えていました。

彼らは興奮していたに違いありません。

エホバから割り当てを受けて忙しかったでしょう。

しかし、割り当てを受けているときでも、わたしたちはやはり立ち止まって思い巡らし、祈り、エホバが望んでおられることを確かめる必要があります。

例えば、今は開きませんが、ヨシュア 8章を見ると、イスラエルはエリコを征服できたことが分かります。

しかし、アイでは問題が生じましたね。

彼らは事態を収拾してから再び攻め上りました。

それで、アイの住民を打ち倒すことができました。

次に何をしましたか?

約束の地全体の征服は目前でした。

彼らはエバル山に登りました。

あのマウント・イーボーではないですよ、念のため。

エバル山に行って、何をしたのでしょうか?

立ち止まって、思い巡らし、祈って、エホバが望んでおられることを確かめました。

律法の書全体を読んだのです。

彼らは、軍事行動を休止し、時間を取って、エホバが何を望んでおられるかを確かめてから、征服を完了するために進んで行きました。

では、教訓は何でしょうか?

皆さんはすでにたくさんの割り当てを受けてきました。

今後さらに多くの割り当てを受けるでしょう。

しかし、すでに割り当てに取り組んでいるからといって、その後もエホバが歩みを導いてくださるとは限りません。

立ち止まって、思い巡らし、祈って、エホバが望んでおられることを確かめる必要があります。

3番目の例として思い起こしたいのは、わたしたちが特別な割り当てを受けるときには特に注意して、エホバから歩みを導いていただく必要があるということです。

わたしたちは次のように考えてしまうかもしれません。

「わたしはギレアデに行ったから、集会をいくらか休んでも大丈夫だ。わたしは霊的な脂肪を蓄えた。他の兄弟たちは集会に行く必要があるけれど、わたしは蓄えがあるからしばらやくやっていける」

本当でしょうか?

この点で助けになる聖書中の例に注目しましょう。

ルカ 2章です。

これはヨセフとマリア、そしてイエスの誕生についての記録です。

ルカ 2:22-24。

「また、モーセの律法にしたがってその浄めの期間が満ちた時、彼らはエホバに差し出すため、その子を連れてエルサレムに上った。エホバの律法に、『胎を開く男子はみなエホバに対して聖なるものと呼ばれねばならない』と書いてあるとおりにである。また、エホバの律法に、『やまばと一組もしくは若いいえばと二羽』と述べられているところにしたがって、犠牲をささげるためであった」

まず、いつのことですか?

これはイエスが誕生した40日後の出来事です。

マリアは律法に従って浄めのために神殿に行く必要がありました。

22節と24節は、その点に言及しています。

律法の規定でした。

しかし、23節はどうでしょうか?

欄外参照には引用元が示されていますが、マリアの浄めについてではありません。

これは、何のことを言っていますか?

おそらく男子、つまり夫が子どもをエホバに差し出して5シェケルを支払い、これが自分の子であることを認めてもらうための要求事項について述べています。

その場合、ヨセフとマリアの二人が時間を取って神殿に行き、儀式を行なう必要があったことになります。

ヨセフはイエスの誕生後、30日以降にそうしたと考えられます。

いずれにしても学べる教訓は何でしょうか?

明らかに、ヨセフとマリアはこうは言いませんでした。

「わたしたちは天使の訪問を受けました。この子は本当に特別なんです。この子が生まれたときには羊飼いたちがやって来ました。そして天には大勢の天使が現われました。わたしたちが神殿に行って5シェケルと犠牲の鳥をささげなくてもいいに決まっています」

二人はそうしませんでしたね。

自分たちの得ていた特別な割り当てを、エホバの命令を行なわない口実とはしませんでした。

教訓は何でしょうか?

これはわたしたちにも当てはまります。

どんな特別な割り当てを受けるとしても、基本的なことは引き続き行なう必要があるということです。

わたしたちは自分の受けた特別な割り当てを、基本的なこと、例えば聖書通読や祈り、集会への出席、奉仕などを行なわない口実にすることはできません。

そうです、受けている特別な割り当てが、エホバの望んでおられることを行なわない口実に決してならないようにしてください。

では、まとめてみましょう。

エホバに歩みを導いていただくために、個人として何をする必要があるでしょうか?

最後にご紹介したい聖句は箴言の言葉です。

箴言 23:19です。

箴言 23:19。

「我が子よ、聞いて賢くなり、あなたの心を導いて道に進ませよ」

何をしなければなりませんか?

心を正しい方向に向けるのです。

正しい方向に進むとどうなりますか?

エホバが喜んでくださいます。

エホバはどうされますか?

わたしたちの歩みを導かれます。

素晴らしいですね。

間もなく割り当ての場所に向かう皆さんが、エホバから豊かに祝福され、エホバに助けていただけることを願っています。

しかし、忘れないでください。

状況は重要ではありません。

興奮しているとき、割り当てを果たしているとき、特別な割り当てを受けるときでも、何をすべきでしたか?

立ち止まって、思い巡らし、祈り、そしてエホバが望んでおられることを確かめるのです。

そのようにすれば、自分の歩みを、いつもエホバに導いていただくことができるでしょう。

動画リンク

JW.ORG で見る(別ウィンドウ)