144期ギレアデ卒業式「はじめの話」 - デービッド・スプレーン

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モニターの写真をご覧ください。

よくご覧ください。

よーく見てください。

これはどういう場面でしょうか?

ヒントを差し上げます。

この写真は、75年前の2月に撮られました。

これは、ギレアデ第1期の初日の授業の場面です。

75年前の2月に、ギレアデが始まったんですね。

さて、このギレアデ、という名前、ちょっと変わっていますよね。

どういう意味でしょうか?

「『証しの小山』という意味です」と答えた方は、1984年版の「新世界訳聖書」に良く通じておられますね。

英語改訂版では「証人である山」です。

この「山」は整然と積み上げられた物の山を指します。

カナダのわたしの出身地では、冬はとても寒くなります。

燃料費を節約するために、多くの家庭では薪ストーブを使っています。

家の外に出てみると、薪がきちんと積み上げられている風景を目にします。

雑然と積んである家はほとんどありません。

細部にまでこだわって積んであるお宅もあります。

家の外観に気を配る人であれば、それこそ芸術的な薪の積み方をします。

薪を適当に放り投げてできた山ではありません。

きちんと積まれたもの、これが「証人である山」のイメージです。

さて、なぜここで「証人である山」について細かく話しているのでしょうか?

そもそも、この「山」とは何のことでしょうか?

「証人である山」のもともとの意味は何で、どんな目的のために作られたのでしょうか?

卒業していく皆さんとどんな関係があるのでしょうか?

実は大いに関係があります。

卒業生だけではなく、わたしたち全員に関係することです。

この「証人である山」、別名ギレアデから、皆が学べる教訓があるのです。

これらの言葉が出てくる、元の聖書の記述を見てみましょう。

創世記 31章です。

背景はこうです。

族長ヤコブは義理の父ラバンに何度も裏切られてうんざりしていました。

聖書の中でラバンは不正直な人物として描かれています。

こんな人から中古車を買ったら、大変なことになりそうですね。

ヤコブは、もうたくさんだ、と妻たちや子どもたちを連れて逃げ出します。

ラバンは後を追って行きます。

追いついた時、2人は平和の契約を結びます。

では実際に43節から読んでみましょう。

創世記 31章43節です。

「するとラバンは答えてヤコブに言った、『娘はわたしの娘たち、子供はわたしの子供たち、群れはわたしの群れ、すべてあなたが見ているものはわたしのもの……だ』」

ラバンの性格が分かりますね。

44節。

「『だから今、さあ、わたしたち、わたしとあなたとは契約を結ぶことにしよう。それがわたしとあなたとの間の証しとなるのだ』。そこでヤコブはひとつの石を取り、それを立てて柱とした。それからヤコブは自分の兄弟たちに言った、『石を拾ってください!』それで彼らは石を拾い取って、小山を作っていった」

次に注目してください。

「そののち一同はそこでその小山の上で食事をした」

学者たちの意見によれば、この「証人となる山」はきれいに積み上げられていて、テーブルのような形になっていたので、そこで平和な関係を象徴する食事をすることができました。

それでこの「山」は記念碑になりました。

ラバンとヤコブとの間に交わされた、平和の契約の記念碑です。

次いで47節。

「そしてラバンはそれをエガル・サハドタと呼ぶことにしたが、ヤコブのほうはそれをガルエドと呼んだ」

この学校の名前が、ラバンの付けた名前にならなくてよかったと思いませんか?

ものみの塔エガル・サハドタ聖書学校の卒業生って言われたら、どんな感じがしますか?

言いにくい名前ですよね?

それで、ガルエド、つまりギレアデという名前になりました。

48, 49節です。

「それからラバンは言った、『今日この小山はわたしとあなたとの間の証しとなる』。そのゆえに彼はその名をガルエドと呼んだのである。また、“物見の塔”とも呼んだ」

この2つの言葉、「ガルエド」と「ものみの塔」は両方とも学校の名前に含まれていますよね。

ではこの石の山の目的は何だったのでしょうか?

52節をご覧ください。

「この小山は証しであり、柱も証しとなるものだ。すなわち、わたしはこの小山を越えてあなたを損なわず、あなたもこの小山とこの柱とを越えてわたしを損なうことはない」

ですからこのギレアデ、「証しの小山」「証人である山」は、まさに記念碑となったのです。

これは平和と一致の象徴となりました。

この記念碑、もしくは「証しの小山」、「証人である山」どちらでもいいですが、この記念碑のわきを通っていく人はだれでも、一致の大切さを思い起こしたことでしょう。

さて、ラバンとヤコブの間の一致は、自然に発生したものではありませんでした。

先ほど43節を読みましたね。

ヤコブに追いついたラバンがまず口にした、非難めいた言葉を覚えていますか?

「娘はわたしの娘たち、子供はわたしの子供たち、群れはわたしの群れ、すべてあなたが見ているものはわたしのもの……だ」

これではけんかを売っているようなものです。

それはヤコブが汗水流して得た財産だったからです。

妻を得るため14年労働し、ラバンに10回も報酬を変えられました。

ラバンには自分のものだと言う権利は少しもなかったのです。

ヤコブは腹を立てて当然でしたが、自分を制しました。

何のためでしたか?

平和のためでした。

平和を作り出そうとしたのです。

ヤコブが取ったのは賢い方法でした。

ここまで考えると、ギレアデという名前が実にふさわしいことが分かってきます。

組織内に素晴らしい一致が行き渡っているべきことを思い出させるからです。

ギレアデは宣教者たちを世界の隅々まで送り出すことにより、神の民を結び合わせることに大きく貢献してきました。

宣教者たちは、エホバ神との平和な関係に入るよう、人々に訴えてきました。

また、世界本部がどう機能するかをよく理解していたので、各地に支部事務所が開設されたときには、本部と支部、また支部間の一致を促進する仕方で働くことができました。

現在ではギレアデは、会衆や巡回区や支部を強くし、支部間の、また世界本部との強いきずなを作ることに主眼を置いています。

そしてどの分野においても目的を果たしてきました。

わたしたちは「一人の羊飼い」のもとにいる「一つの群れ」です。

この群れの中にいるだれをも傷つけないようにしてください。

平和を作り出す人になってください。

平和のために努力しましょう。

時にはそのために自分を制することも必要です。

これはわたしたちみんなが学ぶべき点だと思いませんか?

みんな王国の平和に寄与したい、エホバの組織内の平和を促進したい、と思っているのではないでしょうか?

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