あなたは謙遜な生徒ですか?
「はい」と答えた人は謙遜ではありませんね。
でも皆さんは謙遜に見えますよ。
ここまでは素晴らしいプログラムでしたね。
ここからはどうなるでしょうか?
わたしたちは皆、徹底的に謙遜でなければならないことを知っています。
エホバがご自分のしもべたちに求めておられることは、謙遜さを誇ることではなく、本当に謙遜であることです。
それで、神に喜ばれる謙遜さについてこれから考えてみましょう。
謙遜であるとはどういう意味ですか?
へりくだった思いのことです。
確かに、自分のことを過大に評価して尊大にふるまうことではありません。
箴言 8:13でエホバはこう述べておられます。
「自分を高めること、誇り……をわたしは憎んだ」
ですからこのことを心に銘記したいと思います。
エホバは誇りを憎まれますが、謙遜な人たちのことを喜ばれます。
さて、ギレアデ学校で学んだ間、聖書に関する皆さんの知識量は増加しました。
しかし皆さんがこれから先に学ばなければならないことも、山ほどあります。
ギレアデで学んだ数か月間、皆さんは物事を一層よく理解できるようになりました。
そして学んだことを他の人たちに話したい気持ちでいっぱいでしょう。
それは良いことです。
でも、ここで注意してください。
どうぞ、十分に注意してください。
細心の注意を払ってください。
知識をひけらかすことで、自分が支部や会衆にいる兄弟姉妹たちよりも上にいると見られることが、ないようにしてください。
自分で笛を吹いてはなりません。
「君の笛をほかの人に吹いてもらうがいい。そうすれば音は2倍遠くまで響くだろう」と、ウィル・ロジャースは言いました。
それよりも、エホバの導きの下に、箴言 27:2に記されていることを考えましょう。
「あなた自身の口ではなく、よその者があなたをたたえるように。あなた自身の唇ではなく、異国の者がそうするように」
確かに、会衆の兄弟姉妹たちには皆さんほどの知識はないかもしれませんが、その知識をもってこの事物の体制から新しい世へと生き残れるでしょう。
エホバは皆さんのことを愛しているのと同様に、これらの兄弟姉妹たちのことも愛しておられます。
ところで何年も前に、聖書を学び始めて間もない聖書研究生の経験を聞いたことがありました。
彼は、理解できた幾つかの真理を大切に思っていましたが、ある時病気になって瀕死の状態になりました。
病院の医師たちに「君は輸血しなければいけないよ」と言われたとき、彼は「輸血はしない」と言うべきことをすでに知っていました。
家族は真理にいなかったので輸血を強く勧めましたが、「いやだ、輸血はしない」と彼は答えました。
他の人たちも輸血するよう勧めましたが、「輸血はしない」と言いました。
こうして医師は手術を行ない、成功しました。
皆喜びました。
その後、研究司会者と会衆の人たちが病院に呼ばれました。
その研究生には何か尋ねたいことがあったのです。
何でしたか?
ベッドの周りに集まったとき、皆何かおかしいと感じました。
その研究生が輸血を受けたいのかと思ったのです。
彼がこう尋ねたからです。
「なぜ輸血してはいけないんですか?」
彼は異邦人の時が1914年に終わったことも、主権のことも、わたしたちが今理解していることも知りませんでした。
しかし、ほんのわずかながら真理を知っていました。
神のお名前と主権、神の支配の正当性を擁護することは十分には理解していませんでしたが、命の危険に遭遇したとき、神のおきてを破るくらいなら死んだほうがよいということは理解していたのです。
たとえそれを説明できないとしても、です。
つながりが分かりますか?
重要なのは、エホバに喜んでいただけることをどれほど知っているかではなく、知っていることをどう思うか、その知識を使っていかにエホバへの愛を強めてきたか、なのです。
ではここでご一緒に聖書を開きましょう。
皆さんはギレアデの生徒、聖書を学ぶ生徒ですからね。
ローマ人への手紙 12章です。
その中の数節を読みます。
3節から読んでみましょう。
「わたしは、自分に与えられた過分のご親切によって、あなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ、神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ、健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」
これが要点です。
たくさん知っていると考えて自分自身に焦点を当てるべきではありません。
エホバはわたしたちがそうするのを望んでおられません。
16節に注目してください。
「他の人たちのことを、自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。高ぶった事柄を思わず、むしろ、へりくだった事柄を求めなさい。ただ自分の目から見て思慮深い者となってはなりません」
素晴らしい助言ではありませんか。
生徒の皆さん、優れた助言ですね。
でも、助言が心に達するためにはこの2節以上のことが必要です。
もう少し多くのことを知る必要があります。
ここギレアデ学校にいた数か月間、わたしたちにはふんだんな量の知識が与えられ、それを大切に思っています。
しかし、コリント第一 8:1には、わたしたちが注意深く考えるべきことが述べられています。
「わたしたちは、自分たちがみな知識を持っていることを知っています」
その次です。
「知識は人を思い上がらせるのに対し、愛は人を築き上げます」
皆さんは多くの知識を取り入れました。
ですから、そのことで思い上がって、自分は会衆の他の兄弟姉妹たちよりも上だ、などと思うことがないように注意しなければなりません。
エホバは、この学校で高度な知識を身に着けた皆さんを愛しているのと同じく、他の兄弟姉妹たちも愛しておられます。
幼い子どものように謙遜であってください。
マタイ 18章でイエスはそのことを述べています。
3節と4節にこうあります。
「あなた方に真実に言いますが、身を転じて幼子のようにならなければ、あなた方は決して天の王国に入れません。それゆえ、だれでもこの幼子のように謙遜になる者が、天の王国において最も偉大な者なのです」
ですから、本当に謙遜であってください。
至高者、宇宙主権者、「とこしえの王」であられるエホバ神は謙遜な方です。
詩編 18編でダビデ王が述べているとおりです。
「あなたの謙遜さがわたしを大いなる者とするのです」
わたしたちを大いなる者とするのも神の謙遜さです。
もしエホバが謙遜な方でなかったなら、わたしたちはここにいなかったでしょう。
人間は一人として生きられません。
神は謙遜であられるので、わたしたち一人ひとりが謙遜であると期待する正当な権利をお持ちです。
さらに、わたしたちは、他の人たちが謙遜であって人間に栄光を帰すことがないように、助けなければなりません。
なぜこれを言うかというと、時々ある兄弟姉妹たちは、わたしたち統治体の成員が、すでにみ使いであるかのように思っているからです。
わたしたちの妻は、実際そうなのかどうかよく尋ねられます。
本当のことが分かるでしょう。
わたしたちはみ使いではありません。
他の人たちと同じく罪人です。
ですから、わたしたちのことを高めることをしないでください。
誰かを高めたいのであれば、エホバを高めるべきです。
でも、皆さんがわたしたちに何か悪いことをしたと言いたいわけではありません。
そうではありません。
皆さんも人間なので罪の傾向があり、深く考えずに行動してしまうことがあります。
でも、わたしたちを高めるより、むしろ謙遜でいられるようにも助けてください。
詩編 113:6ではこう述べられています。
「神はご自分を低くして天と地をご覧になり」
どんな意味ですか?
神は厳格な方ではなく、宇宙で最高の地位におられるのに謙遜に行動されるということです。
それで、わたしたちが、どんな立場にいても謙遜に振る舞い、他の人に同等の者として接するよう教えておられます。
わたしたちは皆兄弟で、立場は同じです。
イエスを完全に見倣える人はいません。
その歩みにしっかり付いていくように努力しているにすぎません。
エホバの模範が助けになります。
アブラハムは、邪悪な都市ソドムとゴモラを滅ぼすという神の目的に関して、その正当性に疑問を投げかけ、エホバはそれを聞き入れられました。
創世記 18章でアブラハムは言います。
「もし義人が五十人いたら、それでもあなたはすべてを滅ぼされますか?」
「滅びに至らせない」と神はお答えになります。
「四十五人だったら?」
「滅びに至らせない」
「四十人?」「滅ぼさない」
「三十人?」「しない」
「二十人?」「しない」
「十人?」「しない」
もういい加減にしなさい。黙りなさい。
これはわたしが加えました。
でもここで聖書に何と書かれているか、覚えておられますか?
こうあります。
「こうしてアブラハムに話し終えると、エホバは進んで行かれ……た」
神は変わらず謙遜であられます。
モーセが、あたかも別の人間に対するかのように神と論じ合うことを、二度神はお許しになりました。
神は謙遜にもモーセの嘆願を聞き入れられました。
では、イエスはどうでしたか?
謙遜でしたか?
フィリピ 2:5-8に注目しましょう。
共にフィリピ 2:5-8を読みましょう。
ご自分のiPadや聖書をお持ちでない人がいるかもしれませんが、大丈夫です。
あとでこの聖句を読むことができるでしょう。
2章の5節から読んでいきます。
「キリスト・イエスにあったこの精神態度を、あなた方のうちにも保ちなさい。彼は神の形で存在していましたが、強いて取ること、つまり、自分が神と同等であるようにということなどは考えませんでした。いえ、むしろ、自分を無にして奴隷の形を取り、人のような様になりました。それだけでなく、人の姿でいた時、彼は自分を低くして、死、それも苦しみの杭の上での死に至るまで従順になりました」
そうです、イエスは謙遜でした。
ご自分の弟子たちの足、汚れた足を洗うことによって、どのようにして謙遜になれるかを教えました。
そのような仕事はしもべが行なうもの、もしくは奴隷の仕事でした。
イエスは弟子たちの前でご自分を低くされました。
ヨハネ 13章にある、足を洗う場面で、おそらくイエスは膝をついていたでしょう。
なぜそう言えますか?
実は、1枚の絵、ウォーウィックの事務所棟にある1枚の美しい絵のことを言っています。
その絵にはイエスが使徒たちの足を洗っている様子が描かれています。
イエスはどうしていますか?
膝をついています。
調べましたが、ヨハネ 13章には、イエスが膝をついていたとは述べられていません。
でも、実際に皆さんが誰かの足を洗うとき、膝をつかずにするでしょうか?
ですから、イエスは膝をついて彼らに教訓を与えていたのです。
使徒パウロは謙遜さの優れた模範を示しました。
フィリピ 1:1で自分のことを、イエス・キリストの「奴隷」と呼んでいます。
謙遜でなかったなら、今から読もうとしていることを書いたりしなかったでしょう。
「わたしは自分のうち、つまり自分の肉のうちに良いものが何も宿っていないことを知っているのです。願う能力はわたしにあるのですが、りっぱな事柄を生み出す能力はないからです。自分の願う良い事柄は行なわず、自分の願わない悪い事柄、それが自分の常に行なうところとなっているのです」
ローマ 7章です。
彼は超自然的な幻や啓示を幾つも与えられました。
エホバ神によって強力に用いられました。
そのことを使徒19:11-16から知ることができます。
こうあります。
「そして神はパウロの手を通して、異常なまでの力ある業を行ないつづけられた。そのため、ただ布切れや前掛けを彼の体から取って患っている人のところに持って行くだけで、疾患は去り、邪悪な霊たちは出るのであった。ところが、悪霊払いをする放浪のユダヤ人のある者たちも、邪悪な霊につかれた人たちに対して主イエスの名をとなえることを手がけ、『パウロの宣べ伝えるイエスによってお前たちに厳粛に言い渡す』と言うようになった。ところで、ユダヤ人の祭司長でスケワという人の七人の息子がおり、これを行なっていた。しかし、邪悪な霊は答えて彼らに言った、 『わたしはイエスを知っているし、パウロとも面識がある。だが、お前たちはだれなのだ』そうして、邪悪な霊のいる男が彼らに躍りかかり、彼らを次々に抑えつけて打ち負かしたので、彼らは傷ついたまま裸でその家から逃げて行った」
明らかにこれらの者たちは、本当に謙遜ではありませんでした。
悪霊たちを追い払うためにイエスの名をとなえていたからです。
パウロは神の導きの下に、クリスチャン・ギリシャ語聖書の27の書のうちの14の書を書き記しました。
それでも高慢になることなく、謙遜であり続けました。
パウロは唯一の謙遜な人ではありません。
模範となる別の人は、ものみの塔聖書冊子協会の3代目の会長、ネイサン・H・ノアです。
ノア兄弟は執筆部門の成員のオフィスを訪ねたときに次のように述べました。
「この部門では、非常に重要で、非常に難しい仕事が行なわれています。ですから、わたしにはこの仕事はほとんどできません」
素晴らしいですね。
まさに謙遜な言葉です。
わたしが何を言いたいかお分かりですか?
まさに同感です、と言いたいです。
わたしは統治体の執筆委員会で奉仕しています。
なぜか知りませんが。
書くのは全くダメなのに、です。
ノア兄弟が示した謙遜さのことで思い出すエピソードがあります。
それはメリーランド州のクラウンズビルで、旅行する監督たちの学校が開かれていた時のことです。
テッド・ジャラズ兄弟は教訓者の1人でしたが、ある朝早起きして全員分の温かい朝食を用意してくれました。
自分から率先してそうしたのです。
わたしも教訓者の1人でしたが、そんな考えは思いをよぎりもしませんでした。
おそらくわたしは本当に謙遜ではなかったのでしょう。
あるいは謙遜さを示せていなかったのでしょう。
料理はと言えば、こちらもわたしは全くダメです。
高められるにはどうすればよいでしょうか?
その答えがルカ 14:11にあります。
「だれでも自分を高める者は低くされ、自分を低くする者は高められるのです」
何が必要ですか?
謙遜さです。
他の人が上であることをつらい経験をして学ぶことがないようにしてください。
わたしの家で飼っていた、ブーザーという名前の、年を取ったハウンド・ドッグの例を考えましょう。
ブーザーはわたしたちが町に出かけるときについてくることがありました。
ある日、かつて子犬が飼われていたある家の前を通り過ぎました。
その子犬は死んでもういませんでしたが、ブーザーは何かを嗅ぎつけてクンクンと嗅ぎまわりました。
家のすぐそばまで近づいたそのとき、家の向こう側から大きなダルメシアン犬が走ってきて、ブーザーに襲いかかりました。
ブーザーも応じましたが、敗れました。
ダルメシアンの勝ちです。
ブーザーはうしろ脚の間にしっぽを挟んで一目散に逃げました。
数週間後にブーザーはまたわたしたちと一緒に散歩に行きたがりました。
でも、あのダルメシアンの家の近くまで来ると、ブーザーがいなくなりました。
ブーザーはその家をずうっと遠回りして、町でわたしたちに追いついたのです。
この辺で話を締めくくることにしましょう。
ブーザーは本当に謙遜でした。
ダルメシアンを自分より上とみなしたのです。
では生徒の皆さん、ブーザーの例から得られる教訓は何ですか?
他の人たちを自分より上とみなしてください。多分彼らは上でしょう。