ギレアデ第145期の卒業式に出席できて、本当にワクワクしますね。
まず最初に、次の質問を考えてみましょう。
ギレアデの卒業式のプログラムは、この世の様々な学校で行なわれる卒業式のプログラムと、どんな点で異なるのでしょうか?
みなさんも同意されると思いますが、この世の一般的な学校の卒業式では、先生や生徒が自分たちの成し遂げた功績をたたえる話をします。
しかし、生徒の皆さんはお分かりのように、ギレアデの教育課程と訓練は、すべてエホバを賛美するためのものです。
それで、最初の話の主題は、「自分への称賛を求めず、いつもエホバを賛美しましょう」というものです。
これは聖書の内容と調和しています。
ご一緒にローマ 12章を見てみましょう。
12章の3節と16節に注目してください。
「わたしは、自分に与えられた過分のご親切によってあなた方の中のすべての人に言います。自分のことを必要以上に考えてはなりません。むしろ、神が各々に信仰を分け与えてくださったところに応じ、健全な思いを抱けるような考え方をしなさい」
わたしたちが持っているものはすべて、エホバから与えられたものであるということです。
ですから、わたしたちは自分のことを必要以上に考えるべきではありません。
16節です。
「他の人たちのことを、自分自身に対すると同じような気持ちで考えなさい。高ぶった事柄を思わず、むしろへりくだった事柄を求めなさい。ただ自分の目から見て思慮深い者となってはなりません」
みなさんがこの忠告を十分理解しておられると確信しています。
ギレアデでの訓練によって、エホバとの関係が強められ、自分の持っているあらゆる良いものはエホバから来ていることが分かり、ただただ、エホバだけを賛美したいと動かされるからです。
しかし今、卒業して以前の割り当てに戻るにしても、新しい割り当てを受けるにしても、常に自分ではなくエホバをたたえたいという決意を弱める、様々な試練に直面することになるでしょう。
どんな試練があるでしょうか。
あるものは分かりやすい試練かもしれません。
例えば、以前の割り当てに戻るとこう言われるかもしれません。
「おお、別人みたいですね。すごく成長しましたね」
これは実は謙遜にさせられる言葉ですね。
以前がひよっこだった、ということですから。
「すごい知識ですね。素晴らしい例えや教え方ですね」
と言われてどう反応しますか。
こうは言わないことでしょう。
「そうなんです。自分でも驚いています」
こうした状況で皆さんが自分ではなく、エホバをたたえるという決意をしておられることを、わたしたちは知っています。
これは注意すべきだとすぐに気づける、分かりやすい状況と言えるでしょう。
しかし、誇りを表わしたり、自分を称賛したりしたくなるどんな状況があるでしょうか。
例えば、他の人から批判されていると感じたり、軽く見られていると感じたりするかもしれません。
あるいは、望んでいる割り当てをもらえないということがあるかもしれません。
それが罠となって、こう言いたくなるかもしれません。
「あの、皆さんお忘れですか?わたしはギレアデで訓練を受けてきたんですが」
この状況はヨブが陥った罠に似ています。
ヨブと言えば、わたしたちは忠実な人、忠誠の人と考えます。
ヨブと言えば忠誠、忠誠と言えばヨブではないでしょうか。
しかし、ヨブは非常に強い助言を受ける必要があったことも事実です。
では、どの時点でヨブは助言を必要とするようなことをしたのでしょうか。
その点を考えてみましょう。
ヨブの物語を改めて読むことはしませんが、ヨブ 1章にあるように、ヨブは子どもや財産などすべてのものを失ってしまいました。
あっという間にです。
それでもヨブ 1:22にあるように、「ヨブは罪をおかさず、また神に不当なことを帰[しませんでした]」
怖ろしいことがたくさんヨブの身におきて、厳しい試練に遭いましたが、忠実を保ちました。
この時点では罪を犯さなかったのです。
では、第二ラウンドでは何が起きたでしょうか。
ヨブはひどい病気にかかり、そのうえ妻から「神をのろって死になさい!」と言われました。
では、この時ヨブは助言を受けましたか。
いいえ。
ヨブ 2:10には、「ヨブはその唇をもって罪をおかさなかった」と書かれています。
それで、この時点でもヨブは罪を犯さなかったと言えます。
忠誠を保っていたのです。
では、ヨブがいくつかの間違いをして、強い助言を受ける結果になってしまったのはいつでしょうか?
1980年の「ものみの塔」によると、それは3人のいわゆる友人がヨブを批判し、「あれをしたでしょう、これをしたでしょう。だからこうなった」と言い始めた時点です。
さらにその記事では、こうした偽りの非難を受けたためにヨブは追いつめられて、自分を正当化することに必死になり、エホバは自分を正しく扱っていないとほのめかしてしまいました。
では、わたしたちも、批判されたり、誤って非難されたりすると、自分には落ち度がないと自己正当化したくなるでしょうか。
この自己正当化とは何でしょうか。
エホバよりも、自分をたたえることです。
この点で、イエス・キリストはやはり素晴らしい模範を残しています。
ヨハネ 8章の記述に注目してみましょう。
8章48節から50節です。
ここでは、ユダヤ人たちが、イエスを批判し、偽って非難しています。
48節に注目してください。
「それに答えてユダヤ人たちは彼[つまりイエス]に言った、『わたしたちが、あなたはサマリア人で[これは褒め言葉ではありませんね]悪霊につかれている、と言うのは正しいのではありませんか』」
別の時にも、「気が狂っている」と非難しました。
でもイエスは、ヨブのように自己正当化という罠に陥ることはありませんでした。
49, 50節。
「わたしは悪霊につかれてはいません。わたしの父を尊んでいるのであり、あなた方はそのわたしを辱めています。といっても、わたしは自分のために栄光を求めているのではありません。求め、かつ裁いておられる方がいます」
このように、イエスは難しい状況でも素晴らしい模範を残されました。
偽りの非難を受けても、エホバだけを賛美するということからぶれなかったのです。
教訓は何でしょうか。
もちろん生徒の皆さんだけでなく、全員が学べる点です。
ギレアデを卒業したことをアピールする必要はありません。
他の人からの敬意を得るために感銘を与えようとする必要もありません。
自分を称賛する必要はないのです。
わたしたちの目標は何でしょうか。
最後に紹介したい聖句は、マタイに記録されているイエスの言葉です。
マタイ 5:16をご覧ください。
「同じように、あなた方の光を人々の前に輝かせ、人々があなた方のりっぱな業を見て、天におられるあなた方の父に栄光を帰するようにしなさい」
素晴らしい目標ではないでしょうか。
それは自分ではなく、エホバだけをたたえるということです。
この点を思いに留めて、この後の素晴らしいプログラムを楽しみましょう。