145期ギレアデ卒業式「ペテロから学べるたくさんの教訓」 - スティーブン・レット

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ギレアデ卒業生の皆さん、皆さんのお気に入りの聖書中の人物はだれですか?

きっと学校期間中、多くの聖書中の人物について、良い点、悪い点、いろいろ学ばれたことと思います。

お気に入りの人物が別の人になったかもしれませんし、そのままかもしれません。

あるいはお気に入りが増えたでしょうか。

いろいろだと思いますが、この話では、たくさんの点を学べる興味深い人物について考えます。

ペテロです。

まず、ペテロを例にとって、エホバとイエスについて、何を学べるかを考えましょう。

はっきりと理解できる1つの点は、エホバとイエスは、僕たちのいろいろな個性をただ受け入れておられるだけでなく、実のところ楽しんでおられる、ということです。

ペテロと他の使徒たちの性格を比較して、この点を詳しく見てみましょう。

ヨハネ、20章をご覧いただくと、2人の人物の面白い比較を見ることができます。

それはペテロと、もう一人の使徒、ヨハネです。

ヨハネ 20:3からご覧ください。

「そこで、ペテロともう一方の弟子は、出て行って記念の墓に向かった。そして、二人は一緒に走りだした。しかし、もう一方の弟子のほうが速く走ってペテロより先になり、最初に記念の墓に着いた。そして、前方にかがんでみると、巻き布の置いてあるのが見えたが、中には入らなかった。次いでシモン・ペテロが彼のあとから来たが、彼は記念の墓の中に入った。そして、巻き布が置いて……あるのを目にした」

ヨハネはのぞきこんだ、ペテロは飛びこんだ、ということですね。

別の例を考えましょう。

ヨハネ 18:10にあるように、暴徒がイエスを捕らえに来た時、ペテロは剣を抜き、大祭司の奴隷の右耳を切り落としました。

でも皆さん、ペテロはそこをねらっていたと思いますか?

そうだとしたら彼の腕は相当なもんですね。

ねらい通りに、見事に右耳をスパーっといったことになります。

でも彼は剣士ではなく漁師ですから、そんなにうまくいくはずはありません。

ねらったのは頭だったに違いありませんが、的を外して耳を切り落としてしまったのです。

それにしても、ペテロは衝動的な人でした。

別の例は、弟子たちが漁に出ていた時に、復活したイエスがガリラヤの海に現われた場面です。

ヨハネの「主だ!」の一声に、ペテロはすぐに上っ張りをまとって海に飛び込みました。

他の弟子たちは船で岸に向かいました。

「主だ!」の一声に、ザブン!です。

船で向かう他の弟子たち、泳ぐペテロです。

性格が全然違いますが、すでに述べた通り、エホバもイエスも、僕たちのそのような個性の違いを楽しんでおられます。

これらの記述から教えられる点は、エホバとイエスに倣い、わたしたちも「仲間の兄弟全体を愛」する義務があるということです。

ペテロ第一 2:17です。

「全体」、つまり全員です。

自分と性格が全く違う人、別の文化や背景を持つ人たちも当然含まれます。

そういう人たちを友とし、自分の家に、また心から迎え入れる義務があるのです。

ギレアデ卒業生の皆さんは、この5か月間そうしてこられましたし、これからもそうでしょう。

もちろん、わたしたち皆そうしたいものです。

さて、ペテロを例としてエホバとイエスについて学べる別のことは、お二方が惜しみなく許される、という点です。

マタイ 10:33のイエスの言葉について考えてみましょう。

出版物で説明されてきた点ですが、こでもイエスはおそらく、分かりやすいヘブライ語で述べたことでしょう。

こうあります。

「だれでも人の前でわたしのことを否認する者は、わたしも天におられるわたしの父の前でその者のことを否認します」

ペテロは、1度や2度ではなく、3度イエスを否認しました。

でもエホバもイエスも、ペテロを完全に許しました。

彼が本当に悔い改めたからです。

イエスがペテロに、3回ご自分に対する愛を言い表わす機会を与えたのも、彼の3度の否認を帳消しにしたいと思ったからなのかもしれません。

教訓は何でしょうか?

エホバとイエスと同じように、惜しみなく許すべきだということです。

事実、エホバがわたしたちをどのくらい許してくださるかは、わたしたちが他の人をどのくらい許すかにかかっています。

他の人を許さないなら、エホバも許してくださいません。

そうなれば滅びです。

しかし、許すことは許すが、そう教えられているので仕方なくそうするというケチな許し方をするなら、エホバもわたしたちに同じようにするでしょう。

反対に、もし本当に惜しみなく許すなら、エホバも惜しみなく許してくださるでしょう。

ですから、だれかが罪を犯し、あなたを深く傷つけた時は、悪いことが起きたというより、むしろビッグチャンスです。

エホバに惜しみなく許してもらえるチャンス到来です。

そのチャンス、逃さないでください。

ペテロを通して、エホバとイエスについて学べましたが、ペテロ自身からも、良い面悪い面ありますが、多くを学べます。

では、まず弱点から考えましょう。

ペテロは性急に話すことがありました。

質の悪い癖でした。

考えずに話して恥をかく、というあれです。

いますね、こういう人。

マタイ 16章を見てみましょう。

イエスは、自分がエルサレムに行き、多くの苦しみに遭い、殺されると話します。

そこでペテロはすぐに言葉をはさみ、何とイエスを叱りつけて、「主よ、ご自分を大切になさってください。あなたは決してそのような運命にはならないでしょう」と言いました。

悪い癖が出てしまいました。

ご承知の通りこの後、イエスに「わたしの後ろに下がれ、サタンよ!」と言われ、恥ずかしい思いをすることになります。

しかし聖書の記録によれば、ペテロはこの弱点を克服しました。

克服したのです。

性急に話してしまったことが確かにありましたが、ペテロ第一 3:10にある言葉をはばかりなく語るまでになり、そのとおりに生きました。

こうあります。

「命を愛して良い日を見たいと思う者は舌を制し[なさい]」

時間がかかりましたが、わたしたちが今学んでいるように、ペテロも学んだのです。

教訓は何ですか?

箴言 18章の言葉に要約されています。

見てみましょう。箴言 18:13です。

「[事実を]聞かないうちに返事をするなら、それはその人の愚かさであり、恥辱である」

舌を完璧に制御できる人はいませんが、事実を知るまで、少なくとも言葉を控えるのは良いことです。

では、別の弱点を見てみましょう。

ペテロは自信過剰になることがありました。

よく知られている出来事がマタイ 26章に出てきます。

「ほかのみんながあなたに関してつまずいても、わたしは決してつまずきません!……たとえ共に死なねばならないとしても、わたしは決してあなたのことを否認したりはしません」

自信過剰ですね。

「誇りは崩壊に先立ち」ます。

この時問題だったのは、ペテロがエホバではなく自分自身に頼ったことでした。

しかし、聖書によれば彼はこの弱点も克服しました。

後に彼は、ペテロ第一 5:6にある言葉を書きます。

「それゆえ、神の力強いみ手のもとにあって謙遜な者となりなさい」

自分自身に頼るのではなく、エホバのみ手のもとに謙遜になるということです。

では何を学べるでしょうか?

地区大会土曜日の最後の話で学んだ通り、真の勇気は自分を信じるということではありません。

自分の限界をわきまえてエホバに頼るなら、真の勇気が生まれます。

自分自身に頼るのは、ゴム製の松葉づえにもたれるようなものです。

ゴムの松葉づえにもたれたら、倒れてしまいますね?

しかし申命記 32:4によれば、エホバは「岩」です。

岩ならびくともしません。

これがペテロから学べる点です。

自分に頼らず、エホバにいつも頼る、ということです。

もう1つ、弱点です。

ペテロは時に、人への恐れに屈しました。

よく知られた出来事では、女の子への恐れでした。

マタイ26章です。

「ひとりの下女がやって来て、『あなたも、ガリラヤ人のイエスと一緒にいました!』と言った。しかし彼は……それを否定し、『あなたが何のことを話しているのか、わたしには分からない』と言った。彼が門舎のところに出て行くと別の女が彼に気づき、……『この人はナザレ人のイエスと一緒にいました』と言った。すると、彼は再びそれを否定し……た」

この2度の否定、女の子を恐れてしまいました。

しかしペテロが人を恐れるという弱点を克服し、エホバとイエスについて恐れず大胆に語る証人になったことは明らかです。

使徒5章にある出来事を考えてみましょう。

サンヘドリンを前にしたペテロと他の使徒たちに、大祭司はイエスについて教えることをやめるように命じたではないか、と言います。

それに対しペテロは、「わたしたちは、自分たちの支配者として人間より神に従わねばなりません」さらにイエスについて言えば、神は死人の中から彼をよみがえらせました。その方をあなた方は殺したのです、と言います。

すごいですねぇ。

もはや人を恐れていませんね。

明らかに弱点を克服しています。

では教訓は何でしょうか?

人への恐れに屈しないよう、最善を尽くすことです。

男性も女性も、女の子に対しても、です。

人ではなく、エホバがどう見ておられるかが重要です。

人は人生を1秒伸ばすこともできませんが、エホバは人生に永遠の時間を加えるかどうかを決めることができるのです。

それでは、ここからはペテロの長所について考えましょう。

ペテロの長所は、時に露呈する短所を補って余りあるものです。

1つは、エホバを待つ態度です。

ヨハネ 6章にその素晴らしい模範を見ることができます。

ここでイエスは、自分の肉を食べ、血を飲まない限り、永遠の命を得ることはできない、と述べます。

聖書の記述によると、多くの弟子がこの話にショックを受けてつまずき、イエスに従うのをやめました。

イエスはペテロに、あなたも付いて来るのをやめますか、と尋ねます。

ここでペテロが語った美しい言葉を思い出されるでしょう。

「主よ、わたしたちはだれのところに行けばよいというのでしょう。あなたこそ永遠の命のことばを持っておられます」

ペテロが他の弟子たちよりもイエスの教えを理解していたというわけではありません。

しかし彼は、エホバがさらに理解させてくださる時を喜んで待ちました。

そして時たつうちに、これらの言葉は、イエスの体と血に信仰を働かせることの比喩だったことを理解します。

では教訓は何でしょうか?

ペテロがそうしたように、「わたし[たち]の救いの神」を待つ態度を持たなければならない、ということです。

ミカ 7:7です。

具体的には、例えば今日のプログラムでもすでに触れた点ですが、組織からの割り当てや任命を待つことをいとわないでしょうか?

あるいは、会衆において、これは正すべきだと感じることを、エホバがご自分の時、ご自分のやり方で正してくださるのをつぶやかずに待ちますか?

辛抱強く待つ点で特に独身の皆さんに当てはまりますが、エホバがふさわしい結婚相手を与えてくださる時を、それが新しい世になるとしても辛抱強く待つことができるでしょうか?

そうです、ペテロのように待つ態度を持ちましょう。

では、もう1つペテロの長所から学びましょう。

ペテロは、エホバにいっそう仕えるために、現状を良しとせずに進んで自分を変えていきました。

例えば、ペテロは招待を受けるとすぐにライフスタイルを変え、自分の時間とエネルギーの多くを、物を得るためではなく、エホバへの奉仕に費やすようにしました。

それなりの年だったと思われますが、それでもペテロは、経済的な安定よりもキリストに従うことを価値あることとみなしました。

別の例ですが、彼は無学な普通の人とみなされていて、おそらく日常的にかかわる人と言えば、漁業関連の人々だったと思われますが、後に何千人もの人々に対して人気のない音信を語る大胆な人に変化しました。

また彼が変化した別の例は、サマリア人や異邦人に強い偏見を抱いていましたが、サマリアや諸国の兄弟たちを心から愛するようになったことです。

では、教訓は何でしょうか?

エホバにいっそう仕えるために自分を進んで変えますか?

皆さん自身、自分の「現状」が何かはご存じでしょう。

進んでその「現状」を後にして、エホバにいっそう仕える機会をとらえますか?

必要のより大きな区域、エホバがあなたを遣わそうと思うそのような地に喜んで向かいますか?

公の証言やビジネス街での奉仕など、今のところ少し苦手に感じている奉仕の分野に挑戦してみるのはどうでしょうか?

あなたは人見知りで話すのが苦手かもしれませんが、勇気を出して非公式の証言をしてみるのはどうでしょうか?

さらに、ペテロの別の長所を見てみましょう。

矯正をはねつけず、それによって自分を訓練しました。

使徒たちの中でペテロは一番ずけずけものを言う人でした。

でも、それゆえに一番よく、正され、戒められ、叱責されたのも彼でした。

しかし彼の素晴らしい点は、イエスに従い続け、決してあきらめなかったことです。

すでに触れた点ですが、イエスに「わたしの後ろに下がれサタンよ」と強い助言を受けた時、彼が何週間も、何か月もふてくされていたなどということはありませんでした。

聖書が示している通り、6日後にペテロはヤコブとヨハネと共に山に登り、イエスの変ぼうを見る機会が与えられました。

イエスを否認した時はどうですか?

その時イエスが振り向いてペテロを見たことが、事実上矯正となりました。

ペテロはイエスに言われたことを思い出し、外に出て激しく泣きました。

それでもペテロは、イエスを否認する、という重大な罪ゆえに打ちひしがれるままになることはありませんでした。

許されたことを理解したからです。

後ろを振り返らず、前進し続けたのです。

教訓は何でしょうか?

エホバは愛する者を矯正されるということです。

苦々しい気持ちになって矯正をはねつけないようにしましょう。

謙遜に受け入れ、自分を磨きましょう。

過去に罪を、それも重大な罪を犯したとしても、ペテロのように後ろを振り返らず、前進していきましょう。

もう1つ、ペテロの長所から教訓を学びましょう。

ペテロは謙遜な人となり、その後もずっと真に謙遜でした。

謙遜さを身に着けるのに相当努力したに違いありません。

なにしろ彼も他の使徒たちも、子どものころから一番になるように教えられ、それが心にすっかり染みついたからです。

イエスの地上での最後の日に至るまで、だれもそれを拭い去ることはできませんでした。

ヨハネ 13章にあるように、イエスは弟子たちの足を洗いました。

洗い始めているにもかかわらず、ペテロは「自分にさせてください」などと言うこともなかったのです。

時々、だれかが何かを始めた時になって初めて、「ごめんなさい、気がつかなくてわたしやります」と言うことがありますね。

でもペテロは「主よ、あなたが足をお洗いになるのですか?お手伝いいたします。何本か洗いましょうか?」などと言うことはありませんでした。

他の使徒たちも同じです。

この時点でも謙遜になれなかったのです。

しかしエホバの助け、そしてペテロ自身の努力もあって、やがて彼は本当に謙遜な人になりました。

一番になろうとしていた人が、自分にひれ伏そうとしたコルネリオの身を起こすまでになったのです。

使徒 10章にあるとおり、ペテロは彼を起こし、「立ちなさい。私も人間です」と言うことができたのです。

また、会衆の面前でパウロに正された時に示した謙遜さはどうでしょうか?

もし謙遜でなかったなら、「わたしを正すとは自分をだれだと思っているのか?わたしのほうが真理のうちに長くいるんだ。君がクリスチャンを迫害していた時にはすでに使徒だったんだ。それにだ、会衆の面前でなく、個人的に助言を与えるのが筋だろう」

と言っていたかもしれません。

もちろんそんなことは言いませんでした。

ペテロは自分が間違っていたので、方法はどうあれ正されるべきである、ということをはっきりと理解していました。

憤りを宿すことなく、助言を受け入れました。

この聖書の記述から、どんなに用いられていても、ペテロは謙遜な人だったことがはっきりと理解できます。

彼の人生を振り返ると、彼が本当に多くの特権に恵まれたことが分かります。

水の上を歩きました。短時間でしたが。

イエスの変ぼうを見ました。

ドルカスの復活など、多くの奇跡を起こしました。

「王国のかぎ」を受け取り、用いました。

多くの人を真理に導きました。

それでも彼は真の謙遜さを保ち、わたしたちがよく読むペテロ第一 5:5の、美しい言葉をはばかることなく語ることができました。

こうあります。

「しかし、あなた方はみな、互いに対してへりくだった思いを身に着けなさい。神はごう慢な者に敵対し、謙遜な者に過分のご親切を施されるからです」

そしてペテロは今何をしていますか?

不滅の霊者となりメシア王国の「十二の土台石」の1つとしてエホバに仕えています。

教訓は何ですか?

ペテロのように真に謙遜な人になるべきということです。

そうでないと、わたしたちはエホバにとって全くの役立たずになってしまいます。

そして、どんな特権が与えられても、与えられなくても、ずっと謙遜であり続けることです。

そうすればエホバは、わたしたちに敵対せず、むしろ過分のご親切をずっと施してくださるのです。

さて、この話では、ペテロから学べるたくさんの教訓の幾つかを考えたにすぎません。

もうすぐギレアデ学校を卒業される皆さん、ペテロについてさらに研究されるなら、もっと、もっと多くの教訓を学べることでしょう。

もちろん、他の聖書中の人物からも学べますが、しかしこの忠実で人間味あふれる人物であるペテロからは、本当に多くの教訓を学ぶことができます。

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