あなたの顔が見えます。
あなたの顔も見えます。
でも見えないものがあります。
あなたの頭と心にあるものです。
それは知識です。
皆さんは5カ月間、頭に情報を詰め込んできました。
学んだことを思い巡らして、少しずつ心に入れてきました。
こう思っているかもしれません。
「もう無理、これ以上頭に入らない」
でもそんなことはありません。
皆さんの頭にはもう少しスペースが残っているはずなので、入ります。
大丈夫です。
頭がパンクしそうと思っているかもしれませんが、何とか頑張ってください。
これから考えていただきたいのは、「知識は人を思い上がらせますが、愛は人を向上させます」ということです。
コリント第一 8:1の聖句です。
知識は必ずしも人を思い上がらせるわけではありません。
特に、エホバが与える知識についてはそういえます。
多くの兄弟姉妹は、皆さんのような教育を受けたわけでも、皆さんのような知識を持っているわけでもないでしょう。
でも、エホバが与える知識は、そのような兄弟姉妹よりも優れていると感じさせるためのものではありません。
ギレアデ学校で知識が与えられる目的は、皆さんを思い上がらせることではないのです。
ここでぜひ考えたいことがあります。
何でしょうか?
聖書を開きましょう。
ペテロの第二の手紙を開きます。
ペテロ第二 1:5, 6に書かれていることに注目してください。
こうあります。
「ですから、真剣な努力を尽くして、皆さんの信仰に徳を加え、徳に知識を、知識に自制を、自制に忍耐を、忍耐に神への専心を」
知識に何を加える必要がありますか?
自制です。
学んだ知識を一から十までべらべらと話すべきではありません。
行く先々で広めたりしないでください。
どれほどの知識を口にするかをコントロールしなければなりません。
どんな時も、相手が誰であっても、どれほど話すかに注意しなければなりません。
自制が必要です。
自分が成し遂げたことを自慢すべきではありません。
エホバ神を賛美しましょう。
自分に注意を向けるべきではありません。
知識がたくさんあるからといって、少しでも人を見下すと、相手はすぐにそれを感じ取ります。
ですから、自分をコントロールし、自慢しないようにしましょう。
昔聞いた物語を思い出します。
ハーマンという名前の小さなノミの話です。
ノミのハーマンは大きなゾウの背中に乗ります。
背中に乗って橋を渡ります。
橋はぐらぐら揺れ、今にも壊れそうですが、何とか向こう側に渡ります。
ノミはゾウの背中から下りて、友達に会いにいきます。
そして、自分がしたことを自慢します。
「ゾウと一緒に橋を渡って、橋をぐらぐら揺らしたんだよ」と言います。
でも、ノミは実際どの程度、橋を揺らしていたのでしょうか?
何を学べるでしょうか?
では、物語ではなく聖書に注意を向けましょう。
聖書を開いて、ノミの代わりにバッタについて考えます。
イザヤ 40:22です。
こうあります。
「丸い地の上に住む方がいる。地に住む者たちはバッタのようだ。その方は天を薄織りの布のように広げ、天幕のように張って住まいとする」
では、私たちに適用して考えましょう。
もちろん、この聖句の文脈を見ると、エホバがバッタと呼んでいるのは、ご自分に仕える人たちではなく、世の知識を持つ人たちのことです。
そのような人たちは、エホバから見ればバッタのようです。
エホバが言おうとしているのはそういうことです。
でも、ここでは私たちに当てはめたいと思います。
私たちもエホバから見れば、とても小さな存在で、大きなゾウの背中の上のバッタのようだからです。
何かを成し遂げられるとしても、それは自分に能力があるからではなく、天からつまりエホバからの助けがあるからです。
使徒パウロは自慢しないという点で手本を示しました。
パウロにはたくさんの知識がありました。。
以前はタルソスのサウロとして知られ、高い教育を受け、パリサイ派に属していました。
ユダヤ人にとって申し分のない経歴でした。
でも、兄弟姉妹に手紙を書くとき、自分に栄光をもたらすことはしませんでした。
一例として、コリント第一 2:1-5を読んでみましょう。
パウロが知識によって思い上がらなかったことが分かります。
こうあります。
「兄弟たち、私は皆さんの所に行って神の神聖な秘密を伝えた時、もったいぶった話し方をしたり、知恵をひけらかしたりはしませんでした。杭に掛けられて処刑されたイエス・キリストのことだけを皆さんに語ろうと決めたからです。私は弱さと不安を抱え、非常に恐れながら皆さんの所に行きました。そして、話したり伝道したりする際、知恵の言葉で説き伏せるのではなく、神の聖なる力の証拠を示しました。皆さんが、人間の知恵ではなく、神の力によって信仰を持つためです」
このような手本に倣うため、一生懸命に努力しましょう。
一流大学に行く人たちのようにはならないでください。
そのような人たちは卒業して、科学とか何かで博士号を取得し、それを見せびらかします。
そんなことはしたくありません。
でも注意しないとそうしてしまう可能性があります。
聖書には、世の知恵が成し遂げられることと成し遂げられないことが記されています。
例えば、伝道 1:16-18を見てみましょう。
こう述べられています。
「私は心の中で言った、『私は、これまでにエルサレムにいた誰よりも優れた知恵を手に入れた。私の心は非常に多くの知恵と知識を得た』」
さらにこうあります。
「私は真剣に、知恵とはどんなものか、狂気とは何か、愚かな行いとは何かを知ろうとした。これもまた風を追うようなものだ。知恵が多いと、いら立ちも多い。それで人は知識を増やすと痛みが増すのだ」
自分の方がよく知っている、という気持ちが少しでも顔をのぞかせたら、すぐに正しましょう。
払いのけてください。
そのような考え方を避け、知ったかぶりをしないようにしましょう。
イエスはエホバから計り知れない期間学びましたが、全てを知っているわけではありません。
計り知れない期間とはどれほどの長さでしょうか?
気が遠くなるほど、とてもとても長い期間です。
それでも、全てを知っているのはエホバだけです。
そのことを忘れないようにしましょう。
エホバが知らないことはありません。
なぜそう言えますか?
聖書から分かります。
先ほどのバッタが出てきた、イザヤ 40章です。
今度は13, 14節を読んでみましょう。
こうあります。
「誰がエホバの聖なる力を測れるか。誰が助言者として神を教えられるだろうか。神は理解するために誰に助言を求めたというのか。誰が神に公正の道を教え、知識を与え、真の理解の道を示すのか」
考えてみてください。
私たちが知る必要のあることを知る必要のある時に教えてくださるのはエホバなのです。
複雑な文なので、言うのも大変ですが、理解できましたか?
ギレアデ学校の卒業生の皆さん、学んだことをどうぞ他の人に伝えてください。
学校で学んだことは一切しゃべってはいけない、と言っているのではありません。
でも、何を言うか、いつ言うか、誰に言うかをよく考えてください。
学校でたくさんのことを学んだのは確かですが、学んだことを思慮深く伝えるようにしましょう。
ソロモン王の次の言葉を忘れないでください。
「何事にも時がある……黙っているのに時があり、話すのに時がある」
自分ではなく天に注意を向けましょう。
いつもエホバを賛美し、エホバに注意を向けましょう。
統治体のメンバーである私たちも気を付けなければなりません。
自分の力でしたわけではないことで称賛されるからです。
兄弟たちがやってきてハグし、「統治体の兄弟、ありがとう!素晴らしい!わー、きゃー、すごい、最高!」
私たちには分かってます。
「私たちはなーんにもしてませーん」
皆さんが私たちの立場にいれば、同じことを行えるでしょう。
全てはエホバの力によるものです。
統治体が道具として用いられているのは事実ですが、エホバが全てを行っています。
もちろん、「兄弟の奉仕に感謝しています」と言ってはいけない、というわけではありません。
でも忘れないでください。
賛美すべきなのは、人ではありません。
エホバ神です。
統治体は受けるに値しない称賛を受けています。
称賛されるべきなのはエホバとイエスです。
私たちは800万以上の羊たちの口をつぐませることはできていませんが、努力は続けます。
結論です。
ゾウの背中のバッタのようになってください。
エホバの背中にしっかりつかまって、その乗り心地を楽しんでください。
しかし、何を成し遂げたとしても、いつもエホバを賛美してください。