楽しみなイベントがあると、「日々を数える」、つまりその日を指折り数えて待つものです。
生徒の皆さんも、今日という日を心待ちにしていたことでしょう。
今日はギレアデ学校が始まって138日目です。
では、皆さんは卒業後もいわば「日々を数え」ますか?
数えるべきですか?
その答えを知るために、詩編 90編を開きましょう。
モーセの祈りが記されている部分です。
12節にはこうあります。
「どうすれば一日一日を大切にできるか[または、日々を数えることを]教えてください。私たちの心に知恵を授けてください」
ですから、私たちは日々を数え続けるべきです。
では、「日々を数える」、つまり「一日一日を大切に」するために、神の助けが必要なのはなぜでしょうか?
私たちはエホバ神に献身したからです。
一日一日、エホバに仕え、エホバに栄光をもたらす必要があるのです。
でも、私たちは不完全なので、そうするのは簡単ではありません。
詩編 90:10でモーセは、私たちの人生が短くたくさんの問題であふれている、と述べています。
ですから、献身の誓いを守るには、神の助けが必要です。
一日一日を大切にしましょう。
そうすれば、エホバは助けてくださいます。
イザヤ 30:21の約束に注目しましょう。
エホバはこう言っています。
「右や左にそれそうになる時には、後ろからあなたの耳に、『これが道である。この道を歩みなさい』という言葉が聞こえる」
エホバに献身した者として生きていくには、エホバの助けが必要であることが分かります。
幸い、私たちは暗中模索しているわけではありません。
エホバが導いてくださいます。
でも、すべきことがあります。
もう一度聖句を見てみましょう。
「この道を歩みなさい」。
力強い言葉ではないでしょうか。
あいまいな点はありません。
私たちは道を歩む必要があります。
ただ身を委ねていればよい、というわけではないのです。
私たちはとても忙しい生活を送っています。
いろいろなイベントがあります。
特に、全時間奉仕をしていると、さまざまな割り当ても受けます。
時には行うべきことが詳しく説明され、いつまでに行うかも指示されます。
ですから、あれこれ考えなくて済みます。
でも、注意していないとどうなるでしょうか?
時間や仕事に追われて、なぜ行っているのか、誰のために行っているのかを忘れてしまうことがあります。
いかだに乗ったこの若い兄弟のようになってしまいます。
時の流れに身を委ねて、楽しそうにしています。
でも、どこに行こうとしているのか、何のためか、ということを意識していません。
ただ座って景色を見ているだけです。
オールも持っていません。
自分でこごうとはせず、流れに身を任せています。
エホバに献身した人が、ただ流れに身を任せて生活するのはとても危険なことです。
伝道 9:11にある通り、「思いも寄らないことがいつ誰にでも起きるから」です。
この兄弟にもアクシデントが起こります。
思わぬ所にあった岩にぶつかります。
突然の嵐も生じます。
流れに身を任せ、注意していなかったので、いかだから落ちてしまいます。
つまり、エホバとの関係が弱まってしまいます。
一日一日を大切にしていませんでした。
エホバ神の言葉に耳を傾けず、献身にふさわしく生きていませんでした。
注意を払っていなかったのです。
イエスは、神に献身した人がただ流れに身を任せて生きるべきではないことを強調しました。
ルカ 13:24で、「精力的に励みなさい」と述べています。
割り当てられた仕事を行う時だけではありません。
献身したクリスチャンとして、どんな時もそうする必要があります。
パウロも若いテモテにアドバイスを与えました。
私たちにも役立つアドバイスです。
テモテ第一 4:7でパウロは、「神への専心をいつも示せるように自分を訓練しなさい」と勧めました。
ですから、自分を訓練しなければなりません。
訓練は終わったわけではなく、これからも続けなければならないのです。
神への専心を示すには、一生懸命に努力することが必要です。
自然に示せるわけではありません。
幸い、エホバが助けてくださいます。
エホバは聖書を与え、組織を通して、聖書の原則を適用する方法や用心すべき事柄を教えてくださっています。
でも、実行するかどうかは、私たちにかかっています。
エホバは私たちにいわばオールを渡し、「いつでもこれを使いなさい」と言っています。
その指示に従うなら、この若い兄弟のようになれます。
兄弟はオールをしっかり握り、平穏な時にも使っています。
クリスチャンとして忠実に生き続けるためです。
誘惑や試練に遭う時にもオールを使います。
エホバは兄弟を助け、導き、難しい状況を切り抜けられるようにします。
私たちにも努力が必要です。
大変な時もあるでしょう。
でも、難しい状況を切り抜け、献身したクリスチャンとして生き続けられるよう、エホバは助けてくださいます。
イエスは完全な手本を示しました。
毎日、エホバの指示にしっかり従いました。
そうした指示を軽視したりしませんでした。
また、地上に遣わされた時、務めを果たすための時間が限られていることを知っていました。
完全な人間であっても、自分の力だけで務めを果たすことはできません。
イエスはエホバに頼りました。
与えられた務めを軽視したりせず、毎日エホバに頼り、難しい務めを果たすのに必要な原則を当てはめられるよう、助けを求めました。
イエスは毎日、伝道などさまざまな活動を終えた後、どう感じたでしょうか?
エホバの助けがあった、奇跡だったと感じたでしょう。
イエスはヨハネ 14:10でこう言いました。
「私とずっと結び付いている父が、私を通して行動しているのです」
イエスはエホバが支えてくれていることを知っており、エホバと共に働きました。
そのことを真剣に受け止めていました。
私たちもエホバに頼ることができます。
人間の力では不可能に思えることでも、エホバの助けがあれば行えます。
そのことを示す良い例があります。
ギレアデ第24期を卒業した、マルコム・アレンとグレース・アレンという夫婦です。
2人のライフ・ストーリーが、「ものみの塔」2013年10月15日号に載せられています。
2人は若い頃から開拓奉仕を行い、結婚後も開拓奉仕を続けました。
その後、何年か巡回奉仕を行い、ギレアデに招待され、卒業後ブルックリン・ベテルに割り当てられました。
兄弟は重い責任を委ねられ、姉妹はハウスキーパーとして奉仕しました。
2人はベテル奉仕が大好きでした。
でも、ベテル奉仕を始めて25年後、大きな変化が生じます。
それぞれの両親が健康上の問題を抱え、世話が必要になったのです。
そのため、ベテル奉仕も全時間奉仕もやめなければなりませんでした。
この時、2人は50代後半でした。
若い頃から神に仕えていたので、アレン兄弟は一般の仕事の経験もスキルもありませんでした。
この年齢になってから家族を養っていくのは大変です。
アレン姉妹もそれぞれの両親の世話をしなければなりません。
大きな変化でしたが、2人はエホバ神から与えられたオールを手放しませんでした。
何をするのにもエホバに頼り、エホバの支えを経験しました。
アレン兄弟は保険のセールスの仕事を見つけ、家族を養うことができました。
ストレスとなる状況の下でも前進し続け、喜びを失いませんでした。
やがてそれぞれの両親が亡くなりました。
2人はベテル奉仕を再開できるかもしれない、と思いました。
でも、もう若くはなく、健康上の問題も抱えていました。
それで、地元の会衆の伝道者として、できる限り奉仕することにしました。
そのことをどう思いましたか?
落ちぶれてしまったと思いましたか?
がっかりしたり、苦々しい気持ちになったりしたでしょうか?
アレン兄弟はエホバに仕えた日々について、とても意味深いことを述べています。
「人生は時に、予測がつかず、不確かで対処しにくいことさえあります。それでもエホバは、人間の理解に頼る者たちではなく、ご自分に頼る者たちを祝福してくださいます。そのことを妻とわたしは、これまでの報いの多い人生を通して経験してきました」
2人は神に献身したクリスチャンとしての人生を楽しみました。
献身の思いをあらゆる機会に表明し、生活の中で神への専心を追い求め実践したので、幸せでした。
そして、エホバの力を奇跡とも言える方法で経験しました。
2人は間もなく、別の奇跡を経験します。
今、墓で眠りに就いているからです。
エホバはアレン兄弟姉妹を生き返らせるまでの日数をすでに計算しています。
2人は献身した人として、永遠にエホバに仕え続けることができるのです。
とても大切な教訓を学べました。
私たちは一日一日を大切にし、エホバに献身したクリスチャンとして精いっぱい生きたいと思います。
ギレアデの生徒の皆さんも私たち全ても、引き続きエホバに頼り、この困難な終わりの時代に、エホバから指示されたことを精力的に行っていきましょう。
神への献身にふさわしく生きるのです。
そうすれば、エホバに必ず祝福していただけます。
間もなく訪れる新しい世界で、永遠に素晴らしい日々を送ることができるのです。