147期ギレアデ卒業式「動揺する状況が生じても見捨てられているわけではない」 - ジェームズ・コーソン

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おめでとうございます。

今日はギレアデ第147期の卒業式です。

喜ばしい日、うれしい日です。

皆さんはこれまで、一生懸命努力してきました。

もう限界と思うこともあったかもしれませんが、諦めませんでした。

エホバに頼り、勉強を続けました。

教訓者たちは、皆さんの幸せそうな笑顔を見ることができて、とてもうれしいです。

これからもずっとその笑顔が続くようにと願っています。

でも、私たちはどんなに頑張っても、人生の中で生じる事柄をコントロールすることはできません。

誰もが変化を経験します。

いつか必ず経験します。

小さな変化もあれば、人生を根底から揺るがすような大きな変化もあるでしょう。

そのようなとき、もう自分が自分ではなくなってしまったように感じるかもしれません。

自分という人間を形作ってきたものが、取り去られたように感じるのです。

モーセの例を考えましょう。

モーセはエジプトの宮廷で育ちました。

当時の世界でずばぬけてきらびやかな場所です。

王家の人たちはナイル川沿いに点在する豪華な家に住んでいました。

それらの家は宝石で飾られ、プールや庭園も付いていました。

豪勢な料理を作るため、大勢の使用人も住んでいました。

モーセは世界でも類を見ない素晴らしい建造物についての知識も持っていたことでしょう。

なぜでしょうか?

恐らく、若い頃から執筆、数学、科学、建築などについて教えられていたからです。

エジプトが強大な帝国になり、強力な軍隊を備えるようになった様子も見たことでしょう。

モーセは非常に恵まれた環境で育ったので、自信にあふれ、影響力のある人になりました。

使徒 7:22にはこうあります。

「モーセはエジプト人のあらゆる知恵を教えられ、話も行動も力強いものでした」

ですから、同胞のヘブライ人を守るためにエジプト人を殺した時、自分は救出者だと思ったことでしょう。

自信とやる気に満ちていましたが、勘違いしていました。

その後、モーセはミディアンへ逃げました。

もはや人気のある王子ではありません。

世話を任されているのは羊だけです。

エジプトでは自信にあふれていたのに、今では混乱し、途方に暮れ、おびえています。

動揺したに違いありません。

人はがっかりさせられることがあると、悲しくなり、自信や自尊心を失います。

自分の存在意義を奪われたように感じます。

自分の価値を能力や性格、割り当てや立場、他の人の評価で測る人は、特に傷つきやすいといえます。

そのような人は、「自分の価値は仕事や他の人の評価で決まる」と思っています。

そうしたゆがんだ見方をしていると、自分の本当の姿を見失い、変化が生じるときに動揺してしまいます。

では、そのような人は、見捨てられてしまったのでしょうか?

モーセの話に戻ります。

モーセはヘブライ人を救出するために選ばれた人でしたか?

はい、そうです。

では、エホバの時でしたか?

いいえ。

モーセはまだ救出者になる資格を十分に備えていませんでした。

神からの訓練を必要としていました。

エジプトでは受けられない訓練です。

モーセは高い教育を受け、自信に満ちていましたが、辛抱強さ、温厚、謙遜、自制などをさらに身に付ける必要がありました。

エホバはそれを知っていました。

どのように身に付けさせるかも知っていました。

ミディアンで羊飼いというつつましい仕事をさせることです。

40年後、モーセは燃えるいばらの木を見ます。

驚いたことに、その時エホバからイスラエル人を救出する務めを与えられます。

モーセはこう感じたことでしょう。

「自分はエホバから見て無価値な存在ではなかった。今も自分の価値を認めてくださっている」

過酷な状況に置かれたヘブライ人のことをいつも心配していたモーセは、今や、エホバが行おうとしていること、それも素晴らしい方法で行おうとしていることへの期待を膨らませます。

モーセはエホバから見捨てられていたわけではありませんでした。

むしろ、エホバは40年の間ずっとモーセのそばにいて、訓練を与えていました。

モーセが想像もしなかったような驚くべき割り当てを果たせるよう、準備させていたのです。

エホバはあなたにも同じようにします。

長い目で見、可能性に目を向けています。

成長させる方法も知っています。

忘れないでください。

エホバは一番良い時、ご自分の時にそうします。

エホバと同じ見方を持ちましょう。

変化が生じる時、それがどんなものであれ、それは1つのシーンにすぎず、映画全体ではありません。

1つの章にすぎず、本全体ではありません。

私たちは次にどうなるか知りませんが、エホバは知っています。

モーセはエホバの民をエジプトから救出し、共に何十年も荒野を旅しました。

その後、ヨシュアが後継者になりました。

申命 31:8で、モーセはヨシュアにこう言っています。

「[エホバは]あなたを見放したり見捨てたりはしません」

ヨシュアはこの言葉にとても励まされたでしょう。

モーセは昔学んだ教訓を忘れていなかったのです。

動揺しましたが、見捨てられていたわけではありませんでした。

次の聖句を書いたのは、そのことを実感していたからでしょう。

次の言葉がどの聖句か思い出せますか?

「至高者が与える隠れがに住む人は、全能者の陰にとどまる。私はエホバに言う、『あなたは私の避難所、私のとりで、私が頼る私の神』」

なじみ深い聖句ですね。

詩編 91編です。

モーセは、順調な時にも難しい時にも、エホバが共にいることを心から確信していたのです。

皆さんもモーセのように、喜びや落胆を経験することでしょう。

そして、遅かれ早かれ変化も経験します。

愛着のある割り当てから離れることになるかもしれません。

がっかりするかもしれません。

そんなとき、変化の波に乗りますか?

波にのまれてしまいますか?

自分の価値が仕事や割り当てや立場で決まるわけではないことを覚えていれば、波に乗ることができるでしょう。

皆さんは神に愛され、これまで忠実に奉仕し、素晴らしい希望を与えられています。

そのことを心に留めているなら、変化を進んで受け入れることができるでしょう。

ほかにもできることがあります。

自分の経験を生かして人を助けることです。

人を進んで助けようとする人、動揺する状況が生じてもそうする人は、揺るぎない愛を持つ、十分に成長したクリスチャンといえます。

小さなことを、大きなことと同じように行いましょう。

小さな仕事を大きな心で行うのです。

それは今の生活と新しい世界での生活のための訓練になります。

忘れないでください、どんな立場になるかよりもずっと大切なのは、どんな見方を持つかということです。

エホバが注目するのは、あなたの立場ではなく、あなたの見方なのです。

結論です、変化は生じます。

世の中は変化します。

状況も、私たちも変化します。

でも、エホバは変化しません。

神の言葉も、あなたに対するエホバの愛も変化しません。

たとえ動揺する状況が生じても、あなたは決して見捨てられているわけではないのです。

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