148期ギレアデ卒業式「イエスの慎みに倣う」 - スティーブン・レット

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私の話の主題は、「イエスの慎みに倣う」です。

ギレアデの生徒の皆さんはもちろんのこと、私たち全てにとって大切な点を取り上げます。

まず、慎みとは何でしょうか?

出版物によく出てくる定義は、「自分の限界を知っていること」です。

イエスは自分の限界をいつもわきまえるという点で、完全な手本を残しました。

イエスは、エホバが慎みについてどう考えているかを、よく知っていたに違いありません。

例えば、イエスが地上に来る700年ほど前に書かれた、ミカ 6:8にある考えです。

イエスはそれをよく知っていたはずです。

この聖句では、「エホバがあなたに求めていることは何か」と尋ねられています。

その答えの一部には、「慎みを持って神と共に歩むことである」と述べられています。

エホバは慎みを持つよう単に勧めているのではなく、求めています。

「エホバがあなたに求めていることは何か」とある通りです。

これは要求です。

選択の余地のある事柄ではありません。

イエスはそれを知っていました。

イエスは私たちの完全な手本です。

イエスの慎みにどのように倣えるか、4つの点を考えましょう。

生徒の皆さんだけではなく、私たち全てに役立ちます。

1つ目に、イエスは自分の権限に限界があることをいつもわきまえていました。

マタイ 20章には、ヤコブとヨハネが母親を通して、王国で特別な立場を与えてほしいと、イエスに頼んだことが書かれています。

母親はイエスにこう言いました。

「この息子たちがあなたの王国で、1人はあなたの右に、1人は左に座れるようにしてください」

それに対し、イエスはこう答えました。

「私の右また左に座ることは、私が決めることではありません。その場所は、そこに座る者たちのために、天にいる私の父によって用意されています」

考えさせられます。

イエスは人々にたくさんの良いものを与えました。

結婚の披露宴では、新郎新婦のために、たくさんのぶどう酒を用意しました。

大勢の人の病気を治しました。

群衆に食べ物を与えました。

やもめの息子を生き返らせました。

しかし、王国で第2と第3の地位を与えることは、自分の権限の範囲外であるとわきまえていました。

そのことをはっきり理解していたのです。

何を学べますか?

自分の権限の範囲内でできることは、ためらわずに行えます。

でも、自分の権限の範囲外のこともいろいろあります。

例えば、妻の皆さんは、家庭の中で夫が決定すべき事柄があるのをご存じでしょう。

それは妻の権限の範囲外です。

長老たちは、会衆の中で、自分一人ではなく長老団で決定すべき事柄があるのをご存じでしょう。

ベテルの部門では、監督の許可を求めなければならないことがたくさんあります。

このクラスに支部委員会で奉仕するようになる兄弟たちはいるでしょうか?

もしそうなら、兄弟たちは、自分の権限の範囲を明確に理解する必要があります。

自分で扱えるのか、支部委員会で扱うべきなのか、統治体に相談すべきなのかを、判断しなければなりません。

これまで考えてきたような状況で、私たち全ては、自分の権限の範囲内でできることとできないことを、注意深く見分ける必要があります。

はっきり分からないときにはどうしますか?

そのような場合には、ぜひ確認しましょう。

許可を求めるより、取りあえず進めて、後で謝る方が楽だ、とは考えないでください。

そのような考え方は正しくありません。

別の面でも、イエスの権限には限界がありました。

ヨハネ 12章を開いて、イエスの印象的な言葉を読みましょう。

ヨハネ 12:49です

「私は自分の考えで話したのではなく、私を遣わした天の父が、何を言い何を教えるべきかを命じました」

何を言うかについても、イエスの権限には限界がありました。

イエスにはエホバから教えられていないことを教える権限はありませんでした。

自分の思い付きや考えを教える権限はなかったのです。

イエスは自分の権限に限界があることを認めていました。

私たちはなおさらでしょう。

私たちには自分独自の見解を述べる権限はありません。

自分の話すことはどんなときでも、聖書や忠実な奴隷が述べていることと調和している必要があります。

イエスの慎みに倣うべき、2つ目の点を考えましょう。

イエスは自分がエホバに比べて取るに足りない存在であり、エホバがはるかに偉大であることを忘れませんでした。

悪魔サタンとは大違いです。

サタンの体には慎みという骨は1本もありません。

もちろん、比喩的な意味でです。

サタンには慎みのかけらもないのです。

イエスはエホバだけが持つ称号で呼ばれることを拒みました。

「なぜ私のことを善いと呼ぶのですか。神以外に善い者は誰もいません」

イエスはいつもエホバに栄光をもたらしました。

こう言いました。

「子は自分からは何一つ行えず、父がしていることを見て行えるにすぎません」

イエスは自分を高めませんでした。

自分ではなくエホバの望むことを優先しました。

こう言っています。

「父よ、私が飲まずに済むようこの杯が取り去られることはないのでしょうか。ただ、あなたの望まれることが行われますように」

ちょっと考えてみてください。

イエスはもったいぶった話し方や派手な服装で、自分に注意を引こうとはしませんでした。

もしイエスが目立つ格好をしていたら、ユダは誰がイエスかを教えるために、わざわざ口づけする必要はなかったでしょう。

こう言えば済んだかもしれません。

「1人だけ派手な紫色の外衣を着ている人がいます」とか、「1人だけ立派な口ひげの人がいます。それがイエスです」

口づけしなくても分かったはずです。

でも、出版物でイエスと12使徒が描かれた挿絵を見ると、身なりだけでイエスを見分けるのは簡単ではありません。

みんなと同じような格好だからです。

イエスの手本に倣いましょう。

研究生など他の人から褒められても、慎みを失わないでください。

賛美を受けるべき方はエホバです。

何かを成し遂げたとしても 、自分に注意を向けるのではなく、エホバに栄光をもたらすようにしましょう。

コリント第一 4:7にはこうあります。

「あなたが持っているものでもらったのではないものがあるのですか。もらったのであれば、どうしてもらったのではないかのように誇るのですか」

ですから、決して誇らないようにしましょう。

格言 27:2にもこう述べられています。

「自分の口ではなく別の人があなたを称賛するようにせよ」

では、これからも自分がしたいことより、エホバの望むことを優先させるようにしましょう。

もったいぶった話し方や、慎みのない服装で自分に注意を向けないようにしましょう。

では、イエスの慎みに倣うべき3つ目の点は何でしょうか?

イエスは自分が知るべきではない事柄があることを認めていました。

マタイ 24:36を読んでみましょう。

イエスは、その時点では知るべきでない事柄があった、と言っています。

「その日と時刻については誰も知りません。天使たちも子も知らず、父だけが知っています」

イエスは自分に知らされていないことがあっても、不満に思ったりしませんでした。

そうであれば、私たちはなおのこと不満に思うべきではありませんね。

知りたい気持ちはあっても、知る権限のない事柄を探ろうとはしません。

また、内密な事柄を他の人に決して話しません。

これは私たちのためになります。

例えば、長老の妻である皆さんが、内密な事柄について「何か知ってる?」と尋ねられたとします。

もし知っていたら、まずいことになります。

「知らない」と言えばうそになりますし、「知っている」と言えば、夫が内密を守らなかったことがばれてしまいます。

でも、知らなければ (当然知っているべきではないのですが)、何のためらいもなくはっきりと答えられます。

「いいえ、何も知りません」と言えます。

長老の皆さん、会衆やベテルで、自分に知る権限のない事柄を知ろうしないようにしましょう。

私たちは皆、イエスに倣い、適切な時に情報が与えられるまで待ちたいと思います。

中には、ずっと知らされない情報もあるかもしれません。

でも、与えられる情報で満足しましょう。

イエスの慎みに倣える4つ目の点を考えましょう。

それは、イエスがエホバに全く頼る必要があることをいつも自覚していた、という点です。

イエスは完全でしたが、自分の力に頼りませんでした。

ヘブライ 5章を開いてみましょう。

神の完全な子イエスはどんな態度を示したでしょうか?

ヘブライ 5:7です。

「キリストは、地上で生きていた間、自分を死から救える方に祈願を捧げ、願いを伝えました。[次です]大きな声で叫び、涙を流しながらそのようにし、神への畏れゆえに聞き入れられました」

注目したい点があります。

ギリシャ語の「祈願」や「願い」に当たる言葉は複数形になっています。

ですから、イエスは「地上で生きていた間」、エホバに何度も願いを伝え、何度も祈願を捧げたのです。

どれほど強い感情が伴っていたでしょうか?

「大きな声で叫び、 涙を流しながら」助けを求めた、とあります。

エホバはそれを聞き入れました。

イエスは「叫[んだ]」と書かれています。

しかも、大きな声でです。

非常に「大きな声で叫び」ました。

それも、「涙を流しながら」です。

極めて強い感情を込めてエホバに助けを求めたことが分かります。

考えさせられるのではないでしょうか。

エホバがイエスを助けるため、イエスにとって弟のような天使を遣わした時、イエスはこうは言いませんでした。

「君に助けてもらう必要はない。大丈夫、自分で何とかできる」

イエスは自分に助けが必要であることを認め、感謝して受け入れました。

エホバから力を与えられていましたが、慎み深く自分の限界を認めていました。

慎みがあったので、エホバから力を与えられていても、自分の限界を認めていたのです。

例えば、3年半の間に自分1人ではそれほど多くの人に伝道できないと認めていました。

イエスはどうしましたか?

弟子たちを訓練して、伝道する務めを委ねました。

しかも、ヨハネ 14:12にある通り、弟子たちが「もっと大きなことを行」うとまで言いました。

もっと多くの人に、もっと広い範囲で、もっと長い期間伝道すると言ったのです。

どう思いますか?

神の完全な子イエスでさえ、自分の力に頼ろうとしなかったのですから、私たちはなおさらです。

自分の力に頼ることなど、恐ろしくてできません。

大きな声で叫び、涙を流してエホバに祈願し、願いを伝えることをためらうべきではありません。

エホバが兄弟姉妹を通して与えてくださる助けを、慎み深く受け入れましょう。

慎み深く自分の限界を認めてください。

今日取り上げた4つの点で、イエスの慎みに倣いましょう。

そうすれば、悪魔が仕掛けるさまざまなわなに掛からないで済むでしょう。

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