ギレアデに来る前、皆さんはいろいろな奉仕の特権を楽しんでいたことでしょう。
正規開拓者、特別開拓者、建設奉仕者、野外の宣教者として奉仕していたかもしれません。
巡回奉仕やベテル奉仕をしてきた兄弟姉妹もいるでしょう。
そして今回、ギレアデ学校で5カ月の集中的な訓練を受けるという特権を楽しまれました。
素晴らしい教育に深く感謝しておられるに違いありません。
格言 28:20には、「忠実な人は多くの祝福を受け[る]」とあります。
この卒業の日に、皆さんは豊かな祝福を感じていることでしょう。
私たちもとてもうれしく思っています。
皆さんはこれから割り当てられる場所で、さらに多くの祝福や特権を受けるに違いありません。
皆さんが割り当てられた場所に赴く前に、1つの点をお尋ねします。
特権が与えられると特別な人になりますか?
この質問の答えを知るなら、ギレアデで受けた訓練に対しても、これから受ける特権に対しても、正しい見方を持つことができるでしょう。
そして、エホバからどんな割り当てを受けても、慎みと謙遜を示すことができるに違いありません。
では、特権が与えられると特別な人になりますか?
答えから言えば 「いいえ」です。
一部の言語では、「特権」という言葉は間違った意味を伝えることがあります。
例えば、「特権」に当たる英語の「プリビレッジ」という言葉には、資格という意味があります。
特権階級とは、家柄や資産のゆえに社会的立場が高い人々のことです。
エホバの組織で与えられる特権についてはどうですか?
特権を与えられると、自分は特別だとか、他の人より優れていると誤解する人もいます。
言語によっては、「プリビレッジ」という言葉の意味がさらに誤解されている場合があります。
例えば日本語では「プリビレッジ」という言葉は長年、「特権」と訳されてきました。
辞書にもそのような定義が載せられています。
でも、日本語を話す私たちの多くは、「特権」という言葉を使うことに少し抵抗を感じていました。
この言葉は漢字で書くと、「特別」を意味する「特」と「権利」を意味する「権」で成り立っているからです。
ですから、皆さんにはギレアデに出席する特別な権利があったということになります。
私には、ベテルで奉仕する特別な権利があるということになります。
もちろんそうではありません。
それで、「ものみの塔」2019年9月号の研究記事35を読んだとき、とてもうれしかったです。
「エホバは謙遜な人を高く評価する」という記事です。
その記事の中では、他の兄弟や姉妹にいわゆる特権が与えられるときに、謙遜さが求められることが説明されていました。
日本語の翻訳者たちは意味を正しく伝える翻訳をしています。
特別な権利を意味する「特権」という辞書通りの言葉を使うのではなく、「奉仕の機会」と訳しました。
とてもうれしかったです。
特権は特別な権利ではありません。
むしろ、エホバと兄弟たちにいっそう仕えるための機会です。
では、「特権」という言葉は使わない方がいいのでしょうか?
必ずしもそうではありません。
でも、私たちはこの言葉の正しい意味を理解する必要があります。
「新世界訳」でこの言葉がどのように使われているかを調べると、正しい理解が得られます。
例えばルカ 1:43で、エリサベツは主の母親であるマリアが来てくれたことを「光栄なこと」、文字通りには「特権」と言っています。
エリサベツにはマリアに来てもらう特別な権利があったという意味でしょうか?
そうではありません。
マリアの訪問をエホバからの祝福と考えたのです。
使徒 7:46によると、ダビデはエホバに「神のための家を建てさせていただきたい」、文字通りにはその特権が欲しいと述べました。
パウロはコリント第二 8:4で「聖なる人たちのための救援奉仕に加わることを願った」、つまりその特権を願ったクリスチャンについて述べています。
ダビデとパウロは特別な権利について言っていたのではありません。
そうではなく、エホバと仲間に仕える機会について言っていました。
世間一般で使われている「特権」という言葉の意味と混同しないようにしましょう。
ルカ 17:10から正しい見方を学べます。
その聖句を見てみましょう。
特権、つまり奉仕の機会を与えられたときには、イエスのこのアドバイスを思い出してください。
ルカ 17:10です。
「あなたたちも、割り当てられたことを全部した時、『私たちは役に立たない奴隷です。当然すべきことをしたまでです』と言いなさい」
もちろんこれは、自分のことを役立たずとか、価値がないとか、考えるようにという意味ではありません。
スタディー版聖書の注釈にはこうあります。
「文脈からすると、『役に立たない』という語は、奴隷は自分を特別な名誉や称賛に値する者とは考えず、慎み深く見るという考えを伝えている」
奉仕の機会が与えられたとき、このような見方をする必要があります。
特権のもう一つの面について考えましょう。
英語の辞書によると、特権とは「ある立場や役職の人に与えられた権利」のことです。
しかし、奉仕の特権を与えられた人みんなに何かの立場が与えられるわけではありません。
でも、エホバの組織で奉仕する機会は誰にでも開かれています。
また、そのような機会はたくさんあります。
マタイ 20章を開いて25-27節を読んでみましょう。
イエスはここで、立場よりも仕えることの大切さをはっきり教えています。
先ほどレット兄弟が、この聖句について説明してくださいました。
ヤコブとヨハネの母親が2人のために王国での特別な立場を願い求めた場面です。
25-27節でイエスはこう述べています。
「しかしイエスは弟子たちを呼び、こう言った。『あなたたちは、国々の支配者が威張り、偉い人たちが権威を振るうことを知っています。あなたたちの間ではそうであってはなりません。偉くなりたい人は奉仕者でなければならず、1番でありたい人は奴隷でなければなりません』」
ですからクリスチャンは、高い立場を得ようとするのではなく、謙遜な奴隷として他の人に仕えるよう努力します。
興味深いことに、テモテ第一 3:1は以前「監督の職をとらえようと努めている」人となっていました。
でも、改訂版の新世界訳ではこうなっています。
「監督になろうと努めている人は、立派な仕事を望んでいます」
ですから、大切なのは職や立場ではありません。
他の人のために一生懸命仕えることが求められているのです。
特別な任命や立場がなくても行える奉仕はたくさんあります。
聖書には、一生懸命に奉仕したクリスチャンが大勢出てきます。
ドルカスは「たくさんの善行と憐れみの施し」をしました。
ヨハンナやスザンナなど多くの女性は、自分の持ち物を使ってイエスに仕えました。
テキコは、拘禁されていたパウロの使者として奉仕しました。
マルコは、パウロに食料を届けるなど身の回りの世話をしました。
では、次のことを忘れないでください。
特権が与えられても、特別な人になるわけではありません。
特別な立場で奉仕するかどうかにかかわらず、与えられた特権を謙遜に果たしましょう。
「エホバに一生懸命仕え」、兄弟たちのためにいっそう奉仕する機会だからです。