和平を求めたことはありますか?
その点を考えながら、ルカ 14章を開いてみましょう。
イエスの例えの登場人物になったつもりで読んでみましょう。
イエスはご自分の弟子になるために何が求められるかを話していました。
そして31節からこう言っています。
「また、ある王[この王になったつもりで考えてください]、ある王が別の王との戦いに出ていく場合、まず座って、2万の軍勢で攻めてくる相手に、1万の軍勢で立ち向かえるかどうかを協議するのではないでしょうか。実際、立ち向かえないなら、相手がまだ遠くにいる間に使節団を遣わして和平を求めます」
あなたがこの王だったら、使節団を通して何と言いますか?
「この条件をのめ」と言いますか?
そうではなく、きっとこう言うでしょう。
「あなたと戦いたくはありません。和平を望んでいるので、条件を教えてください」
イエスはこの話をした後、33節でこう言っています。
「同じように、持ち物全てに別れを告げない人は誰も私の弟子になることができません」
私たちはそうしました。
なぜですか?
エホバと戦いたくなかったからです。
全てのものに進んで別れを告げました。
持ち物、いい仕事、立場、全てです。
エホバと和平を求め、イエスの弟子になりたいと思ったからです。
ギレアデ150期の生徒の皆さんは、エホバと和平を求め、特別全時間奉仕を始めました。
皆さんはこれまでずっと忠実に奉仕してきました。
聖書に出てくるある人たちは、文字通り和平を求めました。
いろいろな点で皆さんと似ています。
ヨシュア記 9章に出てくる人たちです。
そうです。ギベオンの人たちです。
ヨシュア 9章です。
ギベオンの人たちは、エホバがイスラエル人とその敵たちにしたことをいろいろと聞いていました。
エホバと戦いたくありませんでした。
それで、イエスの例え話に出てくる王と同じことをしました。
使節団を遣わしたのです。
ヨシュア 9章です。
ギベオンの人たちはこのように切り出しました。
9:6です。
「私どもは遠くの土地から参りました。どうか……契約を結んでください」
最初は良い返事が返ってきませんでしたが、諦めず8節でこう言います。
「私どもはあなたに仕えます」
和平の条件を教えてください、と言っていたのです。
ギベオンの人たちは何でもするつもりでした。
イスラエル、そしてイスラエルの神と和平を結ぶためです。
ヨシュアと民の長たちは、ギベオンの人たちが実際には遠くの土地から来たのではないことを知った時、不快に思いました。
だまされていたことを知ったからです。
口調が少し厳しくなります。
23節を読みます。
ヨシュアはこう言います。
「あなたたちは今後、卑しい者です。ずっと奴隷となり、私の神の家のためにまきを集め、水をくむのです」
ギベオンの人たちはこう言います。
25節
「どんな扱いも受け入れます。正しくて良いと思われることを何でも行ってください」
こうして和平の条件が定められました。
27節
「その日、ヨシュアは彼らを神が選ぶ場所で、民およびエホバの祭壇のためにまきを集める者、水をくむ者とした。今もそうである」
では幾つかの点を考えましょう。
ギベオンの人たちの仕事についてどう思いますか?
罰として与えられた仕事です。
でも彼らは家の奴隷として働いたわけではありません。
エホバへの清い崇拝を直接支え、エホバの民をサポートするために奉仕したのです。
素晴らしい仕事です。
私たちもぜひ行いたいと思うような奉仕ではないでしょうか。
なぜこのような仕事が与えられたのでしょうか?
卑しい人たちだったからですか?
ほかの仕事を行うスキルがなかったからですか?
10:2をご覧ください。
こう述べられています。
「ギベオンは大きな町で、王がいる町のようだったからである。その町はアイより大きく、そこの男たちは皆戦士だった」
スキルも能力もありました。
でも、ギベオンの人たちは、イスラエルの軍隊の方がずっと強いことを知っていました。
自分たちの軍事的サポートが必要とされてはいないことを知っていました。
ですから、彼らはエホバが自分たちに望むことを行うことにしました。
そうすることには確かに価値がありました。
ではギベオンの人たちのスキルは全く生かされなかったのでしょうか?
そうではありません。
数百年後、ギベオンの人イシュマヤはダビデの30人の勇士の1人でした。
求められるスキルは状況によって変わります。
イシュマヤは自分のスキルを使って何をしましたか?
謙遜な態度で清い崇拝とエホバの民を支えました。
与えられた仕事の内容は違っても、目指すところは同じでした。
別の点です。
ギベオンの人たちの仕事は短期間のものでしたか?
「今はやりますが、仕事の期間が終わったら元の生活に戻ります」と言ってやめてしまったでしょうか?
もう一度 9:27を見てみましょう。
節の最後で、ヨシュアはギベオンの人たちについてこう言っています。
「今もそうである」とあります。
ヨシュアがこの言葉を書いた時だけではありません。
約900年後、清い崇拝を回復させるためバビロンからエルサレムに帰還した人たちの中に、神殿の使用人がいました。
恐らく、ギベオンの人たちの子孫も含まれていました。
この神殿の使用人たちは今回も慣れ親しんだ生活を進んで後にし、清い崇拝のために大変な旅をして与えられた仕事を行いました。
この仕事をどれほど大切にし、真剣に行っていたかが分かります。
ギベオンの人たちの手本から何を学べましたか?
4つにまとめてみます。
1つ目に イエスの例え話の王やギベオンの人たちのように、エホバとの平和な関係を大切にします。
そのためにはどんなことでも喜んで行います。
2つ目に、エホバは和平の条件として、私たちが清い崇拝と兄弟姉妹のために謙遜に奉仕することを求めています。
私たちはそのように奉仕できることを本当にうれしく思っています。
3つ目に、求められるスキルは状況によって変わります。
ですから、あなたや他の人の割り当ては時折変わることがあります。
それでも張り合ったり、比較したりはしません。
与えられた仕事の内容が変わっても、目指すところはいつも同じです。
最後に、4つ目です。
割り当てを大切にします。
エホバが用い続けてくださる限り、頑張ります。
要するに、割り当てを大切にし、神を愛します。
エホバとの平和な関係を決して手放さないようにしましょう。